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 結婚おめでとうございます、大谷選手 ― 彼のお相手が彼に〝似ている〟ということについて 2024年03月17日

大谷選手の結婚相手が大谷の顔に似ていると言われているが、それは、ある意味当たり前で、たぶん、大谷のお母さまの若い時代の顔に彼女が似ていたからに違いない。

こういうカップルは大谷選手にかかわらず長続きする(と、私は彼の結婚を勝手に楽観視しているが)。似ても似つかぬ顔の場合は、男性の方に、女性の顔の原型について像が存在していないため、女性と同じような異性彷徨が生じやすい。そんな男に〝引っかかる〟と女性は大変だ。

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投稿者:ashida1670 | 18:06 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 パソコン一つで世界を動かす ― 大学の情報教育は、国・公・私立大学問わず、未だに「電気通信」時代のカリキュラムにとどまっており、今日の「情報」教育に対応できていない。(Ver.1.0 2024年03月02日

2025年4月開設予定(現在申請中)の新学科「環境情報学科」(入学定員40名)について、カリキュラム作り、教員集めのプロデューサーの一人としてその思想を書いてみた。来年4月に新入生に会えるのが楽しみです。

目次---------------

◉二人の天才が作った時代に生きている

◉もう一つの言葉としてのプログラム言語と大学教育の貧困
― ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズの興奮を学べる日本初の情報学科

◉ソフトウェアの開発(プログラミングから設計・ソフトウェア製品開発・システム運用・管理)について全体的に学べるカリキュラムは本学本学科だけ。

◉他大学の授業時間数と本学科カリキュラムを比較してみる(一回の授業時間90分を1時間としてカウントしています) ― 理系・文系を問わない新しい「情報」教育に現代の大学教育は対応できていない。

◉カリキュラム全体に占める〈演習〉の割合が95%!
― 講義を聴くだけでは何も身につかない(学びたい科目があるだけでは学べない)
― 〈知る〉ことが重要ではなく、〈身につくこと〉が重要
― 自分のペースで〈わかる〉までの授業時間が充分確保されている

◉学部長に深澤良彰(大学ICT推進協議会AXIES会長)、学部顧問に鷲崎弘宣(世界コンピュータ会議IEEE会長)を迎え、グローバル水準の教員陣を揃えています。

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●二人の天才が作った時代に生きている

スマートフォン、家電製品、自動車、新幹線、飛行機……、そして食品の開発・管理、クスリの開発、交通システムの開発、まんが・書籍の出版と閲覧、そしてSNS、ショッピング、教育(e-ラーニング)、仮想空間(メタバース)のコミュニティ、生成系AI(人工知能データベース)など、私たちの周りのものはすべてコンピュータで動いています。

物を〈作る〉場合も、物を〈使う〉場合も、そして芸術作品を作ったり鑑賞したりする場合さえ、すべてパソコンを操作しています。最近流行のChatGPTはもはや作り手と利用者との垣根を取払いつつあります。インターネットに繋がったパソコンが一台あれば、誰でもが世界を動かせる時代になりつつあります。一人の個人でも、経験も資金もない若い人たちでも世界を相手に仕事ができる時代になりつつあります。

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投稿者:ashida1670 | 17:37 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 披露宴・新郎の謝辞(ウエルカムスピーチ&謝辞) 2023年06月13日

新郎:ウェルカムスピーチ
本日は、私たち2人のためにお集まりいただき、ありがとうございます。先ほど無事挙式を執り行い、夫婦としての歩みを始めることができました。

今日に向けて、今ここにいらっしゃる全ての皆様が楽しんでいただけるような披露宴にすべく二人で何度も話し合い準備してきました。久しぶりに台本も本気で書きました。

テレ朝の同期と後輩にゴールデン並みの労力でロケと編集もしてもらいました。
皆様の存在なくして、私たち二人は今、ここにはいません。そんな感謝の気持ちを詰め込みましたので、楽しんで頂けると幸いです。

新郎:謝辞
本日は、私たち2人のためにお集まりいただき、ありがとうございました。

改めてこの披露宴を通して、父母のもとに生まれたこと、ここにいる皆様と出会えたこと、そして彼女に出会えたことに幸せを感じています。

私は人生において、大切にしていることがあります。それは、この会場の「ジャスミン」テーブルに座っている世田谷区立千歳中学校で出会った林、岸野カエに30手前のころ、飲みの席で言われた言葉です。

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投稿者:ashida1670 | 12:42 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 【増補版】一生に一度の披露宴謝辞(親族を代表して) 2023年06月12日

●最後にして最初の披露宴謝辞
※当日は流れに身を任せて、と思って話す内容をまとめて原稿にすることはなく、記憶をさぐって一週間かけて自己文字起こししました)

IMG_5141.jpg

「それでは両家を代表して、新郎のお父様、アシダヒロナオさまより御挨拶でございます」(司会・久富慶子)。


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今日のこの披露宴、最初のつかみの演出がよかっただけで、あとは何というかありがちな演出で、なんだかなぁと(会場・笑)。

先ほどの新婦の、ご両親への言葉も長すぎてつまらないし(新婦から「ひどーい」の悲鳴、吉村崇さんから「言い過ぎだろー」会場・大笑)。

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投稿者:ashida1670 | 14:49 | 感想を見る・書く (1) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 【増補改訂版】今日の大学教育の衰退について ― あるいは、学力論、動機論、試験論、そして教育の組織性についてver15.0 2022年10月18日

今日の大学教育の衰退について ― あるいは、「学修成果の可視化」について

教授する術を心得ていることや知を教授すること、さらには知識を生みだす術を心得ていることは、私たちが問うている古典的かつ近代的な伝統においては、作品を生みだすこととは異なる。教員自身がその作品に署名するわけではない。彼ないしは彼女の教員としての権威は、作品に対する作者の権威とは異なる。(ジャック・デリダ)


※文中に出てくる(●●●)などの表記は、その直前の語句の上に付く傍点ルビを意味します。悪しからず。

【目次】
偏差値格差をどう乗り越えるか ― 多様性教育の害悪について(〝優秀な〟学生はどんな大学のどんな教員の下でも存在している)/成果の継続的な拡大 ― 「組織的な」教育の必要性について/〈修得〉主義と〈履修〉主義について ― 試験主義と出席主義の起源/拡張された学力概念の害悪(1) ― 科目教育の軽視と履修主義/拡張された学力概念の害悪(2) ― 内発的な動機論(意欲主義)は、カリキュラムと試験を形骸化する/拡張された学力概念の害悪(3) ― カリキュラムこそが〈動機〉の形式であることについて/生涯学習と学校教育との違いについて/反多様性論としての「学修成果の可視化」について ― 低さの標準性、高さの標準性/杜撰な大学の杜撰な試験 ― あるいは、終わりのない動機論の杜撰さについて/60点未満の「落伍者」にしか関心のない大学/就職の現象学 ― 学内退学者を抱えたままで就職の質が上がるはずもない/中等教育と大学の自己点検・自己評価/パワポ授業の現象学 (1)― 箇条書きでは何もわからない/パワポ授業の現象学 (2)― 箇条書きの反対語としての「narrative形式」/再論・授業改善はどうでもいい/試験調整(●●)を放置する最後の砦としてのメンター主義(担任主義)と卒論ゼミ主義/結語 ― 諸悪の根元としての試験の私物化について/参照・参考文献

⚫偏差値格差をどう乗り越えるか ― 多様性教育の害悪について(〝優秀な〟学生はどんな大学のどんな教員の下でも存在している)

今日の大学の序列化は、入学時の偏差値(入学試験のレベルとその解答のレベル)でほとんど決まっており、入学後卒業までの4年間の教育力がその入口の偏差値格差を相対化するところにまでは至っていない。文字通り、東京大学の入学試験は「とても難しい」という評価に伴って、そしてまたその入学試験を解ける大学生の〝基礎学力〟の高さによって大学の教育評価の大半が決まっている。

企業が一般的に当てにしているのは、残念ながら、偏差値による大学ヒエラルキーであって、このヒエラルキーは、基礎学力の高さ、特には苛烈な受験勉強で形成された基礎学力の高さ、その高低の選抜にとどまっている。「大学の選抜性(入学偏差値)によって就職状況が異なること」(小杉礼子)は昔も今も変わらない。入学後の大学教育(4年間、124単位以上の教育)は、このヒエラルキーにほとんど抗えていない。

授業自体、教育自体は一流大学も三流大学もそんなには変わらない。教員の教育能力に大きな違いはない。どこの大学でもやりっぱなしの授業、講演のような授業をやっていることに変わりはないが、〝一流〟大学では、二つの担保がある。一つ目は、教員の不親切な授業を補う学生の基礎学力が担保されていること。二つ目には、わからない授業が続いても、卒業する価値(ブランド)は担保されているということ。好き勝手な授業をやる個性的な(●●●●)教員の授業などほとんどまともに聞かずそれ以外の学内外の活動が活発な個性的な(●●●●)学生の多様性が生きるのも、基礎学力の標準性と大学ブランドの社会性(歴史性)があってこその話である。

むろんどんな若者でも、20歳をまたぐ18歳からの4年間は大学が何もしなくてもかなり〝成長〟する時期に当たる。その上で言えば、二つの担保のない「多様性」は人の顔は百人百様という、教育以前の多様性(個性)、成長の自然的な多様性のことでしかない。そんなことを再認するために人は、高い授業料を払って高等教育を受けるわけではない。

文科省が使う「多様な学生」という場合の「多様」を「ダイバーシティ」と同義のように理解する人がいるが、この「多様な学生」とは、勉強の〝できない〟学生が大学に進学してくる時代の学生の特質を意味している。つまり「多様な学生」とは、従来の大学教育に付いていけない、勉強が不得意な学生のことを言う※。
※文科省が「多様な学生」という言葉を使った最初の答申は、(私の知る限り)1991年の大学審答申「平成五年度以降の高等教育の計画的整備について」だったが ― まさしく中曽根臨教審直後の答申 ― 、そこでは「高等教育の規模が拡大し、多様な学生が学ぶ状況で、学生の学習意欲の向上を図り、学習内容を着実に消化させるためには、学生の学習に配慮した教育プログラムの開発・提供に取り組むことが重要である」と指摘されている。「学生の学習意欲の向上を図り、学習内容を着実に消化させるため」の「多様な学生」ということだ。アメリカ的な「ダイバーシティ」(ある種「生物多様性」論的な)とは異なる「多様な」という言葉の使い方で導入したことは明らかだ。
アメリカの大学の「ダイバーシティ」は、留学生であれ、経済的に恵まれていない学生であれ、学力は高くて当たり前というような風潮があるが(『ハーバード大学はどんな学生を望んでいるのか?』栄陽子)、日本のように受験偏差値による大学間格差が(一部の超エリート校との格差を除いて)大きくない分、一つの大学内での学生格差はむしろ大きく、リメディアル教育の必要性はアメリカの方が深刻な面もある。R・ホーフスタッターは、第一次世界大戦前後から始まる「大津波のように押し寄せてきた移民の子どもたち」への教育の取り組みを指摘しているし、ギデンズは17世紀まで遡って、ピューリタン的な「子どもの訓育」がアメリカの学校教育の起源だとしている。元々母国語が異なる移民の国だったアメリカの言語的・文化的な「アングロサクソン化」の移行機関が「学校教育」だった。「それに加えて」とギデンズは続ける。「それに加えて、学校は機会均等というアメリカ社会の理想を教え、移住者に新たな生活を築きはじめるよう奨励していった。誰もが平等に生まれているという観念は、他の国で同等の制度が確立されるかなり前に米国における大規模な大衆教育の発達を結果的にもたらした」(『社会学』改訂第三版)。苅谷剛彦が「アメリカでは一部の超エリート大学を別にすれば、学生の学力の分散は日本以上に大きい」(『アメリカの大学・ニッポンの大学』)と言うのも、ヨーロッパ型と異なるアメリカの大学の特殊事情を物語っている。その意味ではアメリカの大学の方が日本の中途半端な(研究もできない、教育もできない)大学よりはるかに「教育」の大学である。
文科省はすでに「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について」=「四六答申」(1971年)において、アメリカ型に倣うような教育重視の大学組織論を提案していたが、「この改革構想は大学関係者の強い反発を買うものであり、政策としては具体化されることなく終わった」(天野郁夫『大学改革を問い直す』)。アメリカでは、学生の所属する組織は「カレッジ」と呼ばれ、教員組織は「デパートメント」と呼ばれている。日本では〈教育〉と〈研究〉とが一体化したヨーロッパタイプの「ファカルティ」(学部)に教員と学生の双方が属している(同前)。そのため日本における大学は、〝一流〟から〝三流〟まで、すべて「教育も研究も」というマインドに充ちている。昨今の「学長ガバナンス」論は、この「四六答申」の半世紀後の展開ともなっている。なんといっても「多様な学生」の現状は1971年(四大進学率20%以下)と今とでは比べようがない。大学=大学生「多様性」論の詳しい言及については、拙著『シラバス論』57頁以降参照のこと。

もちろんどこの大学にも優れた教育を行う教員はいるし、どの低偏差値大学の学生にも、偏差値の高低にかかわらず入学後の成長度の高い学生はいる。どこの大学のパンフレットにもその種の教員や学生が登場している。個人的な成果としてみれば、したがって低偏差値大学(〝三流〟大学)であれ、高偏差値大学(〝一流〟大学)であれ、どこでも同じ〝成果〟を出している。

これらの成果は、〝一流〟大学の場合には、「さすが」と言われることになるが、〝三流〟大学であれば、世間的には例外扱いになる。入学前、高校生が大学選択を行う際に、「私もこうなりたい」「私もこうなれる」と(偏差値を超えて)保護者共々確信してもらえるような大学を作るには、大学側が個人の(多様な)成果の一つとしてではなくて、大学の組織的な教育の成果だと示せるもの ― まさに「学修成果の可視化」 ― が必要になってくる。入学した誰もが、入学した時点から、大学の教育目標(授業目標)に向かってどこまで前進できるか。これが「組織的な」成果で問われている。


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投稿者:ashida1670 | 22:51 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 【完全32スライド版+資料付き】「大学のずさんな授業について ― あるいは、ずさんな授業の元凶は、ずさんな期末試験であることについて(2022教育EXPO講演) 2022年05月13日

本日13日15:00より東京ビックサイトでの講演+対談(京都大学・飯吉透先生)のネタスライド(まだまだ誤字脱字含めて修正中)です。飯吉先生との対談は、このスライド講演についてのものになります。対談に引き続いて公開質問も受け付けます。WEB視聴も現地参加も無料です。私の講演のWEB視聴はすでに200名くらいの申込みがあるそうなので、私もお楽しみにしております。何と言っても『シラバス論 ― 大学の時代と時間、あるいは〈知識〉の死と再生について』(晶文社刊)を出した途端にコロナになってしまい残念なままの2年間でしたから。みなさま、本日ビックサイトで久しぶりにお会いしましょう。ご参考までに27枚のスライドはすべてアップしておきます。時間内には絶対全部終わらないと思いますので。

※申込みはこちらから(個人でも参加可能。申込み登録しておくとWEB視聴の時にパワポ含めて資料類全部ダウンロードできます) ↓ の「教育EXPO 」をクリックしてください。
教育EXPO
スライド1.JPG

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投稿者:ashida1670 | 09:27 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 大学の授業改革はなぜ進まないのか ― 大学における期末試験不正について 2021年11月29日

●大学教育(学校教育)のレベルを担保するのは、〈試験〉

1. 今日の大学の序列化は、入学時の偏差値(入学試験のレベルとその解答のレベル)で決まっており、残念ながら、在学四年間の教育力がその入口の偏差値を相対化するところにまでには至っていない。文字通り、東京大学の入学試験は「とても難しい」という評価に伴って(その入学試験を解ける大学生の〝基礎学力〟の高さによって)大学の教育評価の大半が決まっている。

2. その要因は、大学内期末試験(毎期の履修判定試験)が全国ほとんどの大学で杜撰だからだ。

3. 杜撰になる理由は、大学は〈学校教育〉最後の学校になり、上位接続がないため在学期間の教育の第三者評価(客観的な評価)が〈就職〉という、学校教育体系とは異質な評価で曖昧にされているからだ。

4. その分、大学の教育目標も形式的には立てられるが、それよりも入学時の学力(偏差値)の方がはるかに第三者的で当てになるため、企業の就職担当も卒業時においてさえ〈地頭〉とか〈性格〉とか ― 両者ともコンピテンシー能力の一部 ― を重視することになる。これは大学教育への根本的な不信と諦念から来ている。

5. 不信と諦念から来ているにもかかわらず、この不信と諦念に悪乗りして「アクティブ・ラーニング」とか「コミュニケーション」能力育成とかハイパーメリトクラシー能力育成 ― 教育目標が明確に定めづらい○○力という〈力(りょく)〉能力育成 ― に走るアホな大学も多々ある。不信と諦念はますます拡大するばかりだ。

6. さて、高校までの中等教育でも、授業を行う者(教員)と、試験を作り、採点を行ったりする者とは同一の場合も多いが、偏差値中位以上の高校では、不断に外部模擬試験も行われているために、期末試験の難易度の妥当性や学力測定を標準化する環境がそれなりに整っている。

7. また長い苛烈な受験競争の中で培われた有益で豊富な〈参考書〉や〈教材〉類が揃っており、予復習の環境も整っている。つまり大学受験を目標にしながら、高校の授業自体を生徒や保護者が評価できる環境が存在している。

8. しかし大学の授業は、教育目標はもちろんのこと、授業中の教科書、資料、教材評価という観点からも、学生が、教員の授業を評価できる環境は皆無に近い。事実上、日本の学校教育で一番信用できるのは高校歴(+まともな予備校)の学力(=大学受験時の能力)までで、入学後四年間の大学教育の実体を示すものは何もない(せいぜいオール英語の授業をやり、TOEICのスコアを競う程度のもの。しかしそれも資格教育だから、本来の大学教育ではない)。

そうなるのは、形骸化した試験を繰り返し、〈試験〉不在の教育をやっているのが一番の原因。それは、自分のやっている仕事に泥を塗っているようなもの。なぜなら教員は科目担当者として自分の名前の下(もと)に単位を認定しているからだ。共同研究の論文執筆において指導教授(first author)ともめる研究者もいるくせに、科目の単位認定のときには自分の名前を気にしない〈研究者〉がいるというのはいかがなものか。〈研究〉か〈教育〉か以前の問題だと言える。

9. 〈試験〉を杜撰に行うなら、シラバス(コマシラバス)を詳細化するのも、履修判定指標を詳細化するのも、小テストをコマ単位で行うのも、まったく無意味。そもそも自分で授業をやって、自分で試験や採点をやるのなら、目標の詳細化(シラバスの充実)やそれに対応する試験の詳細化(履修判定指標の充実)をやっても意味がないのだから。だから、ほとんどの教員はシラバスにも履修判定にも小テストにもまったく関心がない。「面倒くさい」と思っているだけだ。

10. しかし〈試験〉こそが学生の成長の可視化の根源にあるのだから、コマシラバスや履修判定指標を詳細化するくらいなら、〈試験〉の遂行と内容を客観的に(第三者的に)詳細化した方がいいに決まっている。今のままでは、試験自体としては難しい立派な試験に全員合格させても誰も信じない。「できない学生が本当にいるんですよ」と訴える教員に限って、標準偏差5.0、不合格者0名の試験をやり続けている。

そのような深刻な事態がどのようにして生じているのか、その原因はどこにあるのか。


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投稿者:ashida1670 | 18:18 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 感染阻止か、経済か、それともそれらの「バランス」か、そんなことはどうでもいい。 2020年07月29日

感染阻止か、経済か、それともそれらの「バランス」か、それとも経済支援かではなくて、そんなことはどうでもよくて、軽症者の臨時隔離施設を確保すればいいだけのこと。

そもそも医療経営が破綻していることの方が街場の飲食店が倒産することよりもはるかに深刻なことだ。前者の経営を確保することなしに後者が立ち直る可能性はないのだから。

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投稿者:ashida1670 | 21:50 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 「観点別評価」と「生涯学習」と中曽根臨教審、あるいは〈主体的な学び〉について(『シラバス論』321~331頁) 2020年03月15日

国語や英語や数学などの教科教育において、知識点数(だけ)ではなく、意欲、創造性も(共に)評価するという、いわゆる「観点別評価」が始まるのは、他ならぬ1990年代以降(=中曽根臨教審以降)の学校教育の中でのことです。

「観点別評価」を一言で言えば、知識点数は40点しか取れていないのに、20点の意欲点などをそれに付加して、履修判定のための最終「総合」合格点(60点)を出すというものです。こうやって、知識点数評価とは別に人物評価的な「観点」を加えていくと、従来は四〇点で落伍していたものが、人物評価主義的に救済されていきます。もちろん逆に100点の知識点数を有していても、50点マイナスの人物評価を受けて不合格になることがあっても理論的には不思議ではないのですが、事態はそうならず、前者の救済評価のみが1990年代以降蔓延したのです。

「知識のみならず、人物評価も」という議論の本来からすれば、(知識点数で)60点以上取るのは当たり前、100点であっても不合格になることがあるというのが、健全な「観点別評価」であるべきでしょうが、事態はそうならず、〝できない〟学生の救済評価になってしまった。中等教育の「観点別評価」の救済評価傾向を受けて、大学のAO入試(人物評価入試)も一流大学のそれを除けば、すべてが救済評価になっています。点数(知識点数)が取れないから意欲で救済する、というものです。

苅谷剛彦は、学習への〝意欲〟を学校外「学習時間」の長さで計ろうとしました。この場合の〝意欲〟は、意欲は平等にあたえられている(はずだ)という前提に立ってのものです。しかし実際、意欲(=学習時間)の強弱は母親の学歴との相関があって、その平等な意欲自体がすでに家庭環境によって減衰しているという報告を、苅谷は各種データに基づいて1990年代中後半から積極的に行ってきました(1995年『大衆教育社会のゆくえ』中公新書、2001年『階層化日本と教育危機』有信堂、2002年『調査報告「学力低下」の実態』岩波書店)。いわゆる「インセンティブ・ディバイド」というものです。

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投稿者:ashida1670 | 02:03 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 学生は〈顧客〉ではない(『シラバス論』186~188頁) 2020年03月14日

なぜかと言えば、学校教育では、〈学ぶ主体〉などまだ完成していないのだから。むしろ〈学ぶ主体〉を形成するのが学校教育全体の目的であって ― 教育基本法では「人格の完成」いう言葉があるが、これは第一条「教育の目的」に属している言葉であって、まだ人格として完成していない子どもたちを前提とした言葉である ― 、〈学ぶ主体〉を前提にするのであれば、〈学校教育〉は存在する意味がない。

〈学校教育〉に〈学ぶ主体〉が存在するかのように思えるのは、家族や地域の文化環境(〝裕福な〟環境)のせいであって子どもそのものの力によってではない。学校教育は、家族や地域の文化環境をとりあえずは括弧に入れて、クラスに入れば子どもたちを公平平等に扱うところにある。すべてはこれからというところにしか学校教育の存在意味はない。そこで初めて、次世代を担う子どもたちは親の世代や階層(家族や地域の文化環境)を超えてあらたな階層を形成していくのだから。

学歴社会(メリトクラシー)というのはもともとそういう意味だった。一言で言えば、学歴主義とは家族や地域の文化環境をリセットし続ける成金主義である ― このリセット装置を竹内洋は「敗者復活装置」「過去の達成の御破算主義」と呼んだが(『日本のメリトクラシー』東京大学出版会、1995年)。「学歴貴族」(竹内洋)、「グロテスクな教養」(高田里惠子)という言葉をかみしめればいい。いい意味でも悪い意味でも。大学教授会ほど「多様な」人々が集まる組織はないが、それは学歴主義の恩恵をもっとも受けた人たちの組織だからだ。〈知識〉に定位するからこそ、〈多様性〉が生まれるのである。教授会は文科省がコントロールできないほど「多様な」組織なのだから。

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投稿者:ashida1670 | 13:09 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 大学における教育と研究との関係について ― フンボルト理念とセネカのDocendo discimus ― (『シラバス論』194~198頁) 2020年03月14日

Docendo discimus(ドケンドー・ディスキムス) は、セネカの言葉である(『セネカ哲学全集(第五巻)』倫理書簡集Ⅰ、岩波書店、2005年)。「教えることによって学ぶ(教えながら学ぶ)」という意味だが、これは西川純(上越教育大学)たちのくだらない『学び合い』教育とは何の関係もない。いつでもどこでも最高判断、最高認識が露呈する仕方で学ぶ者に接しなさいということだ。「君は君自身のために学んできたのだから」(同前・21頁)とセネカは教えることの啓蒙主義を退けていたのだから。

学ぶ者の程度を考えることは教える者自身の堕落に他ならない。「程度を考えて」教える教員は大概がその「程度」の教員に成り下がる。「わかりやすく言うと」と言いつづけて教える教員が、いつの間にかわかりやすいことしか考えられなくなることも多々ある。それは啓蒙主義の限界でもある。

一方、留保なく教えることができるときにこそ、〈教育〉と〈研究〉は重なることが可能になる。そもそも学ぶ者の程度を選ばないためにこそ専門性探求は存在するのではなかったのか。できない研究者ほど、学ぶ者(の程度)を選びたがる。そんなに偏差値の低い学生が嫌いなら、偏差値の高い大学へ行けばいいじゃないかと言いたくなるくらいに。そもそも〝できない〟学生たちほど本質的な理解を欲している。〝できない〟学生たちに必要なのは(程度の低い教員による)機械的な暗記教育や中学校教育の形式的な反復教育ではなくて、大学教員の専門性からする〈基本〉教育なのだ(この基本教育の〈基本〉については本稿第四章④の議論全体を参照すること)。

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投稿者:ashida1670 | 12:46 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 学校教育における職業教育の諸課題(『シラバス論』351~356頁) 2020年03月14日

※本間正人さん(京都造形大学教授)との、大激論公開対談(学校教育における〈キャリア教育〉とは何か)からの抜萃。

●二重の差別を受けてきた「職業教育」

芦田 そういった議論を前に進めるために二点指摘したいことがあります。一つは、本間先生はいま偏差値が上の方の子はキャリア教育はなくてもいいかもしれないという前提(僕もその前提を共有していると指摘されながら)でお話になっていますよね。

僕はこの問題の内部には、実は別の問題があると思います。80年代後半の中曽根臨教審、これは下村博文さん(2012年~2015年の文部科学大臣)や安倍さんが全く同じ方針を引き継いでいますが、基本的にキャリア教育や職業教育に対する差別視がある。

つまり、一方にはジェネラル・エデュケーションとリベラル・アーツというこれまでの偏差値型の軸が一本あって、今の日本の教育体系ではこれを「頭がいい」と判断します。そこで、本間さんもおっしゃるように、シェイクスピアやエリオットやフォークナーなんて、偏差値40の学生にやらせたってしょうがない、という意見を仮に認めるとしましょう。この意見を、私は曾野綾子主義(あるいは三浦朱門主義)と呼んだりもしています(笑)。

そして、その「偏差値の低い」子どもたちに、シェイクスピアやエリオットやフォークナーを諦めさせて、「上場企業とは何か」とか「社会で働くとはどういうことか」とか「親になって子どもを養育するとはどういうことなのか」みたいな話しはしなきゃいけない、そう本間先生もお考えになっていますよね。そういった文脈が、今の「キャリア教育」の文脈です。つまり、できない子どもたちが差別されているのと同じように「キャリア教育」も差別されているわけです。

一方で、私立名門校の教員たちは東大へ合格させることが最良のキャリア教育だと考えている。一方で、「できない子にはせめて社会接続準備のキャリア教育くらいは」という認識が存在している。職業教育はそうやって、(1975年の専修学校制度の発足以来)二重に差別され続けてきたわけです。「職業教育」っていうのは、そんないい加減なものでいいんですか、というのが私の、もう一方での問題意識です。

つまり、キャリア教育の文脈は、専修学校が、“できない子どもたち”の受け皿であったようにして、この変化と多様性の時代においても、ふたたび“できない子どもたち”の受け皿としての機能しか持たされていない。できない子どもたち領域に特有な教育というかたちで、キャリア教育を学校教育に持ち込んでいることにも、私は反対なんです。

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投稿者:ashida1670 | 10:49 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 カリキュラムの反対語は「講座制」 ― 講座制の歴史について ― (『シラバス論』70~77頁) 2020年03月11日

カリキュラム教育においては、科目はカリキュラムの〈部品〉に過ぎないが、東大に始まる旧帝大型の講座制(はるか昔、明治20年代以降に始まった)がまだ色濃く残る ― たとえ学校教育法が2007年にやっと改正され〈助教授〉が〈准教授〉になろうとも ― 今日の科目編成においては、シラバスの「詳細化」がカリキュラム開発に貢献することなどまだまだ考えられない状況だ。

天野郁夫によれば、「講座」の名称が登場するのは、明治23年の「大学令案」(文部大臣は第三代芳川顕正)らしい(『大学の誕生』中公新書、2009年)。当初の大学(教育研究組織)は、学部と学科の「二層」だったが、「大学令」以来、学部・学科・講座の「三層」になり、この「講座」に「教授・助教授・助手」が張り付いたのである。今からみれば、これが大学における学部や学科の求心性を殺ぐ教授主義の起源なのだろう。(※4)

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 「大学の多様性」と「学生の多様性」と ― 「多様性と標準性の調和」(2008年)から「多様性と柔軟性の確保」へ(2018年) ― (『シラバス論』49~68頁) 2020年03月11日

「専門」教養とか「一般」教養、あるいは専門教育と一般教育などのありそうでなさそうな区分ももう一度考えるべき時なのかもしれない。四年間全体が教養教育だと言えば言えるし、四年間全体が柔軟な職業教育だとも言えるこの時代に、学部教育(学士課程)のカリキュラムをどう考えるのか、そこにしか〈専門〉と〈一般〉との区別を考える手がかりはない。

佐藤学によれば、大綱化までの日本の大学は、アメリカの大学の教養課程+ヨーロッパの大学の専門課程を足して二で割ったような体裁(アメリカ型四年教養教育の二年縮減型+ヨーロッパ型四年専門教育の二年縮減型)を取っていたが、設置基準の「大綱化」により、「教養教育が軒並み衰退」した。「それほど教養教育の教官が恵まれない状況に置かれてきたということです。予算といい教育の状況といいノルマといい弱い立場に置かれてきた。そのために一挙に崩れた」ということになる(「教養教育と専門家教育の接合」東京大学教養部第一回FD講演会、2004年)。

そもそも教養教育 ― エリート教育としての「リベラル・アーツ」と厳密に区別される ― は「大量殺戮の戦争」だった第一次世界大戦以降生じたものだと佐藤は指摘して次のように続ける。「その衝撃の大きさから、大学は大学教育のありかたを見直さなくてはいけなくなった。つまり大学の学問や知識は社会にとって進歩にとってどのように有用でありうるのか、そのことを教育においておこなうべきだという議論が出てきた。そこからアメリカでは1910年代から、社会的な課題にこたえる教養教育として出てきた。『リベラル・アーツ』が西洋古典を基礎とする人文教育の伝統的エリート教育であったのに対して、ここで登場した『ジェネラル・エデュケーション』としての『一般教養』は原理が違うのです。社会が提起する課題に答える教養教育、市民のための教養教育といったらいいかもしれません。民主的な市民の教育のための教養教育として『ジェネラル・エデュケーション』という概念が登場します。その当時の大学の『一般教育』に関する文章や論文などを見てみると、フリーダム、リベラル、ピース、デモクラシー、これらの言葉のオンパレードです。いかに民主主義の社会を建設するか、平和を維持する学問になるのか、大学がそこにどのように貢献していくのかということを大学が自ら使命として自覚し、それを教育の構想の中に入れていく、この『一般教育』としての教養教育を大学で最初に始めたのはデューイであり、コロンビア大学にそのコースができます。平和と民主主義のためのコースで、専門の先生方が皆でチームを組んで、今でいう総合科目を開始したわけです」(同前)。

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 先生が「答えを教える」授業はダメな授業なのか(『シラバス論』240~251頁) 2020年03月08日

(…)
一方、潮木守一は「最近では『わかりやすい授業』とは『勉強しなくてもわかる授業』、『予習しなくてもわかる授業』、『先生が答えを教えてくれる授業』になってきている(…)人間が長年にわたって学問にかけてきた努力と情熱を真っ向から否定している」という「ベテラン高校教師」の言葉を報告している(前掲書『大学再生への具体像(第二版)』)。

しかし、これはためにする批判のような気がする。パワポ論のところでも書いたが(二章五節)、授業という場所はどんなに資料(コマシラバスを含めて)を「詳細」化してもメタ情報 ─ それ「について」語るというように ─ が絶えず発生する場所である。詳細化の度合いは、そのメタ情報の質をどんどん高めてくれる。詳細に書き出した内容(の水準)を踏まえてメタ化が発生するからである。

詳細化すればするほどメタ情報は高度化する。書物、教科書、文献、教材資料、あるいは実習設備など、それらがどんなに教場を満たしてもそれら「について」語る教員のメタトークは存在する。たとえ「答えを教えて」もそれについてのメタトークは存在する。「答え」は終わりを意味するわけではない。教場はもともとがメタトークの場所なのだから(註41)。

鈴木有紀の『教えない授業』がダメなところは、最初に答えを教えたら終わりだと思っているところである。しかし、問いかけも再度湧き上がる疑問も終わりの質が決めている。そして終わり(答え)の質を評価できるのは、教員だけなのだ。

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投稿者:ashida1670 | 13:09 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 学歴主義と最新学習歴主義(Learnology)について(『シラバス論 』371~378頁) 2020年03月07日

※本間正人さん(京都造形大学教授)との、大激論公開対談(学校教育における〈キャリア教育〉とは何か)からの抜萃。

本間 僕は「学習学Learnology」というのを提唱していて、「最終学歴」という言葉を死語にすることが目標です。ここも、芦田先生とは違うところだと思いますけどね。「最新学習歴」が大切になってくると思う。

この大学、この学校を出たら学位が出ますというのは、現状、文科省の便宜上の形式的な取り決めに過ぎません。例えば僕らの話を聞いても、学位が出るわけじゃないですね。しかし何かそこで気づきがあり、何かそこで学びがあれば、最新学習歴を更新したことにはなっている。

やっぱり最終学歴という考え方は、教育学習のチャンスが社会的に極めて少ない資源で、かつ学校とかにフルタイムで所属しないと、なかなか知識や技能を身につけることができない社会では一定の意味があったのかもしれない。しかし今は自ら学ぼうと思えば、Google、Wikipedia、MOOC(ムーク)……様々な学習資源がそこらじゅうに存在していて、自分の学びは自分で、どのタイミングからでも学び続けることができる。

芦田先生が二〇代くらいの若い時代を大切にする、僕はそこにロマンティシズムを感じます。でも、やっぱり開花時期というのは人によって違っていて、一〇代で学びに開花する人もいれば、二〇代で、四〇代、五〇代、六〇代で、いま学びが本当に面白くなったっていう人がいてもいいと思うのですね。実際そういう人がいらっしゃると思う。今まで自分はこういう職業人生を送ってきたけれども、今本当に、このフォークナーの面白さがわかるんだ、っていう人生があっても全然いいと思うし、現実にそういう人が多いんじゃないかな。だから、あまりこの二二歳までの時を特別視しない方が、偏差値で輪切りにするような発想からもっと自由になれるんじゃないかなと思うのですね。

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投稿者:ashida1670 | 23:34 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 苅谷剛彦と家庭格差と教育格差について(『シラバス論』278~286頁) 2020年03月07日

(…)
苅谷剛彦は、戦後教育(日本型学歴主義)の平等感を、「画一的な平等化(生徒を分け隔てなく同じように扱う)」→「教育機会の拡大(高校全入運動)」→「メリトクラシーの大衆化(〝生まれ〟によらず誰にも教育において成功するチャンスが与えられている社会)」→「競争条件の均質化、平準化(偏差値による「客観的」「可視的な」基準による選別の公平性)」→「特権意識のない(…)学歴エリートの誕生(特定の文化的アイデンティティを持たない、大衆との連続線上に存在する学歴エリート)」→「不平等問題への視線の弱化(差別感を持たない教育への配慮)」と六段階に整理して、以下のように言っている。

「形式的な平等性によって、選抜の公平さを確保してきた戦後の日本では、これまで主観的な評価を受け入れる伝統が弱かった。従来の入試のように日本では形式的に人びとを公平に扱う手続きが、選抜の公正さを支えてきたのである。そのような社会で、『個性』のように解釈に幅のある基準を選抜に用いる場合、階層文化から『中立的』に見える学力というものさし以上に、子どもの育つ家庭の影響を受ける可能性がある。個性を重視するといっても、すべての個性に価値が与えられるわけではない。また、どの子どもも、高い価値が置かれる個性の持ち主とはかぎらない。個性もまた不平等に存在している可能性がある。高く評価される個性の持ち主は、どんな家庭の子どもか。子どもの育つ家庭の文化的環境のみならず、稽古ごとやスポーツ教室への参加経験がものをいうようになるかもしれない。稽古ごとやスポーツ教室への参加が、親の学歴や職業と関係していることはすでに知られている。そうだとすれば、多様な評価基準を選抜に用いることは、学力とは違うかたちで、社会階層の影響を選抜に持ち込む可能性がある」(『大衆教育社会のゆくえ』中公新書、1995年)。

苅谷はこの著作の後、学歴主義の公平感を支えていた努力主義を実は「母親の学歴相関」によるものとして、1970年代後半から1990年代後半までの20年間に生じた「意欲の階層差」(『階層化日本と教育危機』有信堂高文社、2001年)を指摘していたが、それは努力主義の公平感「イデオロギー」を単に批判するためだけではなかった。「だれをも競争へと巻き込む圧力が減り、学校の後押しが弱まると、努力の階層差が拡大する条件が生じる。

いわば、受験競争に向けた動員力が弛緩することで、学力や教育達成における階層間の不平等の拡大・顕在化の可能性が出てくる」ということだ。そして苅谷は、この著作をこう締めくくっている。「今後、努力の総量はさらに減少し、その階層差もより拡大するだろう。その結果、基礎学力の低下、学力の分散の拡大が予想される。進行中の教育改革はこのような問題を抱えている。教育改革に参画する研究者・政策立案者は、この問題をどう受け止めるのか(…)」(同前)と。「努力の総量」の「減小」とは、「受験競争に向けた動員力が弛緩」することによる「学校の後押し」の弱体化のことだ。この「意欲」や「努力」の「階層差」と本田由紀の指摘したハイパー・メリトクラシーの家族主義を重ねて考えれば、両者に共通するのは、今日における家族主義に依存した学校論、つまり反〈学校教育〉論への危惧なのである。

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投稿者:ashida1670 | 18:50 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 〈教育〉と〈education〉という言葉の語源について(『シラバス論』272~277頁) 2020年03月07日

(…)特に中曽根臨教審第二次答申(1986年)の第二章には「家庭の教育力の回復」と独立して章があてられ、「(…)教育を学校のみの問題としてとらえがちであったことについて、家庭が反省し自らの役割や責任を自覚することが何よりも重要である」とある。自民党保守派の家族主義が独立した章にあてがわれるほどに臨教審のイデオロギー色は強い。私はこれを臨教審の曾野綾子主義と呼んだことがある。

教育現場では〝できない〟学生が発生し欠席が連続し退学予備軍が生まれると、保護者と連係を取ろうという動きが生まれるが、〝できない〟学生の保護者は保護者自体が困難な事情にある場合も多く、「家庭が反省し、自らの役割や責任を自覚する」余裕などほとんどないのが現状である。答申から30年以上経って、その現状は日増しに高まっている。教育現場(学校)が「学校(教育)だけではどうしようもない」と音を上げたときに、子どもたちが戻れる家庭などもはや存在しないのだ。

苅谷剛彦はいささか背伸び気味の近著『追いついた近代 消えた近代』(岩波書店、2019年)で、中曽根臨教審について独立の章を当てて ─ その臨教審をリードしてきた香山健一のテキストを参照しながら ─ 、その思想の特質を、西洋近代化を目指す「追いつき型教育」が軽視してきた「主体性」や「個性」と、「日本的な価値」としての修身的な「自立自助の精神」との「奇妙な結びつき」に見る。苅谷は香山の軽薄な脱近代化論に引き摺られてこんな解説になっているが、臨教審の本質は月並みな保守的家族主義にあり、保守的家族主義は、学校教育における「主体性」尊重や「個性」尊重という傾向とそもそもが親和的なのである。それは「奇妙」な親和性でも何でもない。

すでに触れたように(ブルデューが喝破したように)、それらは下位階層を構造化する「無色化」された「評価用語」に過ぎない。

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投稿者:ashida1670 | 12:54 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 名門私立小・中学校の入試と底辺大学の入試とが同じくAO入試である理由(『シラバス論』269~271頁) 2020年03月07日

(…)一方で東京の名門私立学校が形成する家族主義的に選抜された学生群─この子どもたちの親は一般的に言ってその子どもたちが通う学校の教員よりも学歴(学校歴)と識見が高い ─ が存在し、一方でメリトクラシー(努力主義)によって非家族主義的(点数主義的)に這い上がってきた「グロテスクな」学生群 ─ 「それなりに才能がある、つまりそれなりの才能しかない」(高田里惠子『グロテスクな教養』ちくま新書、2005年)と高田が指摘した文化人たち ─ とが存在している。天皇制の反対概念がメリトクラシーだと言ってもよい。

不思議なことに、名門私立学校と偏差値も付かない学校の入試選抜とはどちらも人物評価であるが、前者は中高一貫校選抜での家族(親)への評価、後者は学生個人への評価である。

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投稿者:ashida1670 | 12:23 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 大学の種別化、機能的分化と専門職大学のことなど(『シラバス論 』261~265頁) 2020年03月07日

(…)文科省の悪名高き「我が国の高等教育の将来像」答申(2005年)は、大学の「機能的分化」という言葉を使って、大学を以下の7つに分けていた。「① 世界的研究・教育拠点、②高度専門職業人養成、③ 幅広い職業人養成、④ 総合的教養教育、⑤ 特定の専門的分野(芸術、体育等)の教育・研究、⑥ 地域の生涯学習機会の拠点、⑦ 社会貢献機能(地域貢献、産学官連携、国際交流等)」。

これが悪名高い分化論であるゆえんは、既存の大学の偏差値格差、都市大学と地方大学格差を「機能的分化」という言葉でまぶしたような分化論=大学階層化にみえるからだ。20年前の中曽根臨教審のなれのはてがこの「将来像」答申だと言ってもよい。なぜかと言えば、その20年間であれだけ手垢の付いた「個性」「特色」という言葉をこの「機能分化」にことよせて、「個々の学校が個性・特色を1層明確にしていかなければならない」と言うのだから。2008年の「学士課程教育の構築に向けて」答申はそういった悪評判を踏まえて出直したような印象がある。そして2018年の「将来構想部会」(文科省)では、この「機能別分化」が3つになり、「① 世界的研究・教育拠点」「② 高度な教養と専門性を備えた人材の育成」「③ 職業実践能力の養成」と変化する。ほとんどの大学は②(ときどき ③)を自認するだろうから、「将来像」答申のような反撥は起こらないだろうが、これでは大まかすぎて意味がない。要するに「機能」という言葉を濫用しているだけのことだ。

専門職大学の設置の時も「これまでの大学とどこが違うのか」という関係者の問いかけに、「何も違わない、機能が違うだけ」と言いつづけたのが文科省だった。学校教育法の第83条の「大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする」の「応用的」あたりの中身をまさに「機能」的に読み替えたのかもしれない。しかし、この83条を変えずに専門職大学を新設したのだから、つまり、「学術の中心として」を外さずに新設したのだから、専門職大学の職業教育は、ふたたび〝普通の〟大学よりは学術的に劣った大学として(結果的に)位置付くことになるだろう。そもそも〝普通の〟大学もますます職業教育的になりつつあるのだから。機能的棲み分けの趣旨は最初から混乱しているのだ。

同じようなことは、この専門職大学の設置の前段のところで専門学校の「一条校化」という議論があったとき起こっている。「一条校化」を断念した結果、「職業実践専門課程」という〝新しい〟課程ができた。これは従来の専修学校にあった「一般課程」「高等課程」「専門課程(=専門学校)」の3つに新たに付け加わる4番目の「新しい」課程のように思われたが、タイトル名称は「専門課程(専門学校)」卒の〈専門士〉、〈高度専門士〉と変わらないということになった。これも「機能」が違うだけと言いたげな変更だった。「一条校化」を断念したおみやげのような職業実践専門課程にとどまったのだ。

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投稿者:ashida1670 | 12:05 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 「シラバスの書けない教員こそアクティブ・ラーニングや演習授業が大好きだ」(『シラバス論』261頁)。 2020年03月07日

(…)最後に触れておかなければいけないのは、「大綱化」以降(厳密には中曽根臨教審以降)の大学改革と並行して進められた「新学力観」のことだ。「新学力観」において、「豊かに生きる力」の資質としての「関心・意欲・態度」「思考力」「判断力」が「観点別評価」と共に前面化されたが、これらの「ハイパー・メリトクラシー」(本田由紀『多元化する「能力」と日本社会』NTT出版、2005年)は、カリキュラム開発の動機を殺ぐものでしかない。

なぜかと言えば、「関心・意欲・態度」「思考力」「判断力」などは結果の能力であって、目的にするほどの固有性はないからだ。たとえば、この「新学力観」が嫌う紙ペーパーテスト試験 ─ とりあえずこの「新学力観」が嫌いな「知識」だけを問う試験 ─ の点数は、そもそもが「関心・意欲・態度」「思考力」「判断力」の成果でないとしたらなんなのだろう。そんなものを伴わない「丸暗記」などあり得ない。「丸暗記」でさえも様々な工夫があるのだから。むしろ、「関心・意欲・態度」が満点なのに、紙ペーパーテスト試験点数が60点を切ることの弊害の方がはるかに大きい。教員が各科目の教科指導に注力しなくなるからだ。自分の教科指導の不備を「観点別評価」で補うことになってしまう。

「点数は悪いが態度は良い」などと。しかし、教員がどんな授業をやったのかということと関係のない、学生(あるいは生徒)の点数はない。点数は学生の点数の前に教員の点数でもある。「点数は悪いが態度は良い」というのは、授業の提供側(教員)の反省を殺ぐ評価の言葉なのだ。

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投稿者:ashida1670 | 02:12 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 2月27日朝日新聞朝刊「文化・文芸欄」の私の記事「究極に公平な入試とは ― マークシート、実は家庭の影響の排除」の補説 2020年02月28日

私の近刊『シラバス論』(晶文社)の補論(1)「大学入試改革と人物評価主義について」(309頁~331頁)が機縁になって朝日新聞社から依頼があり、1400文字という厳しい文字制限の中でなんとかまとめた入試改革議論が2月17日朝刊の「文化・文芸欄」に掲載されました(以下挿入画像参照のこと)。1400字に簡略する前の段階の原稿(この原稿は1900文字あり、それを1400字に再度書き直したものが朝日の記事です)を掲載しておきます。少しはこの詳細版の方がわかりやすいかと。もっと詳しいバージョンは、『シラバス論 ― 大学の時代と時間、あるいは〈知識〉の死と再生について』(晶文社刊)の当該個所とシラバス論本論をお読み下さい。シラバスの問題と入試改革の問題は、同じ問題の裏表の関係になります。それが私のここ数年来の主張です。

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入試改革の目玉だった英語の民間試験活用や記述式試験の導入が見送られた。根本的な原因は「公平性が損なわれる」という世論の強い反発に尽きる。

しかし今回の入試改革問題は、これらの導入の延期にとどまらない問題を含んでいる。下村文科大臣の教育再生実行会議から始まった今回の入試改革の起源は、1993年の学習指導要領における「新学力観」にある。

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投稿者:ashida1670 | 14:05 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 「シラバス論 ― 大学の時代と時間、あるいは〈知識〉の死と再生について」(晶文社・近刊)、どこよりも早く手に入る書籍販売付き出版記念講演会のお知らせ ver.12.0 2019年11月19日

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― はじめて参加される方、「場違いだな」と思う方むしろ大歓迎(芦田の解題講演含みます)。

定価2970円(税込み)、560頁の『シラバス論』(晶文社刊)が、2400円(税込み)の著者割引で当日、どこよりも早く手に入ります!!。すでにAmazonでも予約できます→「シラバス論」予約

日時 2019年12月8日(日曜日)
場所 東京マリオットホテル(品川) 1階玄関左正面「スタジオ」https://www.tokyo-marriott.com/
時間 14:00~16:00
会費 3600円(税別) ※おつりのないようにお願いします。 

 会費の中には
  ※食べ物(14:00からなので軽食ですが我慢してください)
  ・フィンガーサンド
  ・プレッツェル
  ・ミックスナッツ
  ・トルティーヤチップ
  ・フレンチフライ&オニオンリング
  ・ミックスグリーン

  ※飲み物
  ・カールスバーグ(ビール)
  ・白ワイン/赤ワイン
  ・オレンジジュース
  ・ウーロン茶
  ・コーヒー
  ・紅茶

の費用が含まれています。ホテル側に協力していただいて格安対応していただいています。

お申し込みは、
hironao@ashida.info まで。「出版記念解題講演会・参加申し込みます」で受け付けます(受付確認メールを返信します)。
①姓名(よみがなつき)
②昼夜連絡が取れるメールアドレス
③連絡先電話番号(携帯電話番号)
④この出版記念講演会に、自己紹介も兼ねてなにか一言。無理強いはしません(笑)。
の四点を明記して申し込んでください(※決して悪用はしません)。

※ドレスコードはもちろんありません。普段着でお越しください。

★mariotto20191125_110646 (1).jpg
※写真は当日の東京マリオットホテル会場。1F玄関入って左正面の部屋です(テーブルの配置は異なります)。

※以下はプログラム

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投稿者:ashida1670 | 16:39 | 感想を見る・書く (3) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 ver.2.0「シラバス論」序文 ― シラバス論が書かれなければならなかった四つの理由について 2019年09月01日

今年の11月刊行予定の書籍の「序文」ができあがりました(少し序文も長くなりました)。あとは、後書きだけです。

※なお文中に表れる(●●●●●●)といった表記は、その直前の語句に降られる傍点を意味します。●の数はその直前に傍点が振られる語数と対応してます。ブログでは傍点を打つ機能がないのでこうなります。あしからず。
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●まえがきにかえて ― シラバス論が書かれなければならなかった四つの理由について

「シラバス論」。奇妙なタイトルを付けてしまったが、文字通りこの本は、「シラバスとはなにか」ということに一六〇,〇〇〇字(昔ふうに400字原稿用紙枚数で言うなら四〇〇枚)も書き込んでいる。たぶんこんなタイトルの本は、この本の前にも後にも出てこないだろう。それでも、この本については、「シラバス論」以外のタイトルは思いつかなかった。出版社が渋ってもゆずれない思いで、このタイトルにしたのである。

というのも、今日の教育の現状を考える上で、シラバス(授業計画)に対する教員の態度をみることは決定的なことだと思ったからだ。文科省の諸施策も含めてあらゆる大学改革が頓挫するのは、シラバスに対する関心が大学内外において薄すぎるところから来ている。下手をするとシラバスさえ書けない教員がいる。そしてシラバス書式を少し変えるだけでも、教授会では「面倒くさい」と内心の声が上がる。シラバスは教育活動の外にあると思われており、学生サービス(●●●●)の一部くらいの位置付けしかない。

そもそも本稿に登場するそこそこの教育学者たち(特に「教育方法論」の研究者たち)でさえシラバス書式はアメリカ型をそのままコピペしていると言っていいほどだ。そのコピペした書式を国内でもまたコピペして使って、各大学のシラバスが存在している。→大学カテゴリーランキング


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投稿者:ashida1670 | 17:43 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 ●シラバスとは何か(2) ― コマシラバスはなぜ必要なのか ver.20.0 2019年07月15日

※なお、この論考は、他の論考も含めて『シラバス論 ― 大学教育と職業教育と』(仮題)として2019年11月に刊行決定(その他に人物入試批判、キャリア教育論などの原稿を併載)。このシラバス論だけで137000文字(昔風の言い方をすると400字詰め原稿用紙で約342枚)ありますが、途中で投げずにしっかり最後まで読んでください。教育関係者以外にも役立つはず。

この「シラバス論は120,000字を超えたところでブログサーバーの一記事容量制限を超えた模様でアップできなくなりました。もう増補分は実際出版される11月までお待ちください、と断念しかけましたが、折角700バージョンを超える加筆にあきもせず期待していただいた読者のために、【1(第1章~第3章)】と【2(第4章~第5章)】に分けて掲載することにしました。両者に【註】の通し番号を打っています。この形で両者とも出版まで加筆し続けようと思います。よろしくお願いします。→大学カテゴリーランキング

※文中、書籍の縦書きを想定してほとんどすべての数値を漢数字にしています。悪しからず。

※本文中、(●)などの表記が見られる場合は、その前に来る言葉の傍点ルビや読みがなルビを意味している。●が一個だと前の文字一つのルビ、●●と2個だと前の文字二つのルビなどを意味しています。

※以下目次表記の中で※印と共に連番が打たれたものは、本文註に連番を付けて見出しを付けたものです。本文の註には見出しを付けずに連番しかありません。あしからず。註は註1~註52まであります。


(前節から続く)

(四)「コマシラバス」という言葉と一〇年後のシラバス論

① 教員の自己管理のためのコマシラバス

私が「コマシラバス」という言葉を最初に使ったのは、一九九八年だった。その時にはインターネットで検索しても三つしかその検索がヒットしなかった。その三つは、主には小学校の「教案」に使われていたものだった。

しかし、私が「コマシラバス」という言葉を思いついたのはそれとは全く別個の動機からだった。
あるとき、カリキュラム議論ばかりしていないで実際の授業をみんなで見てみようという提案があり、五〇クラスの授業(五〇科目)を、学科を超えて見学。見学者も当該学科を超えた教員が含まれていた。毎回一〇人くらいの教員が見学に入った。授業終了後、授業担当教員を交えて、「この授業をどう思うか」と見学者に振ったが、意見はまちまち。「いい」と言う教員もいれば、「これはまずいでしょ」という教員もいて、評価が決まらない。話を聞いていると、ほとんどの発言は授業法に関わるものばかりだった。「板書が下手だ」「教壇にばかり張り付いてないで教室の後ろにも回れ」「教材の使い方がよくない」「声が小さい」「授業にメリハリがない」「早口でよく聞き取れない」などなど。

これらの評価は、評価者が「私はそうではない」と言っているだけのこと。声の大きな人は小さい声の人に「小さい」と非難する、板書のうまい人は「板書が下手だ」と指摘する、そんなことの応酬になる。そのように大概の授業評価会は、「私はそうではない」という議論に終始する。そしてその反対現象を少し整理して列挙すると、「インストラクショナルデザイン」体系ができあがることになる。全く不毛な。

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投稿者:ashida1670 | 14:51 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 ●シラバスとは何か(1) ― コマシラバスはなぜ必要なのか ver.20.0 2019年07月15日

※なお、この論考は、他の論考も含めて『シラバス論 ― 大学教育と職業教育と』(仮題)として2019年11月に刊行決定(その他に人物入試批判、キャリア教育論などの原稿を併載)。このシラバス論だけで137000文字(昔風の言い方をすると400字詰め原稿用紙で約342枚)ありますが、途中で投げずにしっかり最後まで読んでください。教育関係者以外にも役立つはず。

なお、この記事は120,000字を超えたところでブログサーバーの一記事容量制限を超えた模様でアップできなくなりました。もう増補分は実際出版される11月までお待ちください、と断念しかけましたが、折角700バージョンを超える加筆にあきもせず期待していただいた読者のために、【1】と【2】に分けて掲載することにしました。両者に【註】の通し番号を打っています。この形で両者とも出版まで加筆し続けようと思います。よろしくお願いします。→大学カテゴリーランキング

※文中、書籍の縦書きを想定してほとんどすべての数値を漢数字にしています。悪しからず。

※本文中、(●)などの表記が見られる場合は、その前に来る言葉の傍点ルビや読みがなルビを意味している。●が一個だと前の文字一つのルビ、●●と2個だと前の文字二つのルビなどを意味します。

※以下目次表記の中で※印と共に連番が打たれたものは、本文註に連番を付けて見出しを付けたものです。本文の註には見出しを付けずに連番しかありません。あしからず。註は註1~註52まであります。

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投稿者:ashida1670 | 13:51 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 【註】シラバスとは何か ― コマシラバスはなぜ必要なのか ver.5.0 2019年07月12日

【註】シラバスとは何か ― コマシラバスはなぜ必要なのか 

この記事の本文を含む全体は120,000字を超えたところでブログサーバーの一記事容量制限を超えた模様でアップできなくなったためのやむなしの(本文との)分離掲載です。加筆分は実際出版される11月までお待ちください、と断念しかけましたが、折角700バージョンを超える加筆にあきもせずフォローしていただいた読者のために、【本文】と【註】を分けて無限に加筆掲載できるようにしました。両者に【註】の通し番号を打ち照合できるようにしています。その形で両者とも出版まで加筆し続けようと思います。本文(http://www.ashida.info/blog/2019/05/post_444.html#more)と合わせてお読みください。この註だけで50,000字前後あります。註+本文で122,000字くらいです。根気よくお読みください。二ヶ月で120000字書き殴りましたので(頭の中が燃えさかっていますが)、文中なお誤字脱字あるかと思いますが、ご指摘していただけると助かります。よろしくお願いします。なお註の文中●●●などがある場合はすべてその●●●の前の語に付いた傍点を意味します。●が三個ある場合は、その●●●の位置の三語前の語までに傍点が付いていることを意味します。→大学カテゴリーランキング

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カリキュラムの「大綱化」=「自由化」と選択科目の増加とは必ずしも同じことを意味しないが、中曽根臨教審に発する「個性重視の原則」に発する「新ゆとり教育」 ― 臨教審の第一次答申「個性重視の原則」1985年は、10年後の1996年中教審第1次答申における「生きる力」養成における「個性尊重」という言葉に引き継がれていく ― が選択科目の増大に影響を及ぼしたことは否定できない。

「個性重視」の教育がどんな害悪を生んだかについては本稿第5章で触れる。なお、この答申を契機に、「シラバス」「オフィスアワー」「セメスター制」「GPA」「授業評価」など、「アメリカで開発されてきた、あまり勉強したがらない学生、あまり教育したがらない教員を学習と教育に向けて動機づけ、さらには強制する様々な装置がわが国の大学にも導入されるようになりました」と天野郁夫は指摘し、これらの「装置」を横文字の「小道具」とも言っていたが(天野郁夫『大学改革を問い直す』慶應義塾出版会、2013年)、私のシラバス論の全体はそれとは別の観点からのものである。

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投稿者:ashida1670 | 16:57 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 【本文版】シラバスとは何か ― コマシラバスはなぜ必要なのか(ver.750.0) 2019年05月15日

シラバスとは何か ― コマシラバスはなぜ必要なのか

※なお、この論考は、他の論考も含めて『シラバス論 ― 大学教育と職業教育と』(仮題)として2019年11月に刊行決定(その他に人物入試批判、キャリア教育論などの原稿を併載)。このシラバス論だけで120,355文字(昔風の言い方をすると400字詰め原稿用紙で約300枚)ありますが、途中で投げずにしっかり最後まで読んでください。教育関係者以外にも役立つはず。

なお、この記事は120,000字を超えたところでブログサーバーの一記事容量制限を超えた模様でアップできなくなりました。もう増補分は実際出版される11月までお待ちください、と断念しかけましたが、折角700バージョンを超える加筆にあきもせず期待していただいた読者のために、【本文】と【註】を分けて掲載することにしました。両者に【註】の通し番号を打ち照合できるようにしています。その形で両者とも出版まで加筆し続けようと思います。よろしくお願いします。→「にほんブログ村」大学カテゴリーランキング

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投稿者:ashida1670 | 00:36 | 感想を見る・書く (8) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 DSF11MHz音楽ファイルの再生は、音の風が吹く ― 「ハイレゾ」ファイルは無駄使い 2019年03月09日

朝からお仕事前のDSFファイル11.289MHzの音を聴いてかっと目を開く。この世のものとは思えない音が出て、演奏会場の空気感がスピーカーの背後に一気に広がる。

11MHzのDSFファイル再生だと音を聴くというより、音が空気を連れてきて、一音、一音が肉体をもつかのようだ。音が空間を作りあげている。 「ハイレゾ」(FLACファイルやWAVファイルのリニアPCM「ハイレゾ」)とは全く違う音だと思う。

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※私は、DSDマーカーレス再生する場合、DELA(HA-N1AH20/2)から、AccuphaseDP-750(お金がないのでAccuphase社からただいまお借りしているSACDプレイヤーですが)のUSB-DACに繋いで再生している。USB-DACを通じて再生する場合、マーカーレス再生は結構再生機同士の相性があるので接続確認はした方がよいとのことです。このDP-750の表示窓にある「11289」という数字は、DSFの11.289Hzのファイルをマーカーレスで受け付けているという表示です。

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投稿者:ashida1670 | 11:33 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 SACDプレイヤーとSACDに、今頃目覚めて 2019年01月27日

最近の「ハイレゾ」音楽の流行に乗って、「ハイレゾ」ファイルの数々をネット購入しはじめ(mp3からWAV、WAVからFLACへと)、数あるハイレゾファイルの中でも、特にはDSD(DSF、DFF)ファイルの音の良さに取り付かれて、「もはやCDの時代ではない」と思っていたら、DSD(Direct Stream Digital)記録こそ、いまから、20年前に登場した「SACD(Super Audio CD)」ではないか、とお恥ずかしながら今頃気づいて。
※「SACD(Super Audio CD)」とは、→ http://ow.ly/QNyo30nsUKm

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※写真は今頃買い直し始めたSACD。

そうこうするうちに、今頃SACDプレイヤーを(初めて)買って、そして今頃SACDを買いあさって、たとえば、私の生まれた1954年モノラル録音のフルトベングラーによるブラームス交響曲第三番をシングルレイヤーSACD限定版で聴くと、これがまた格別で、(目をつむると)ありありと1954年の演奏会場が浮かぶという快挙。20年前にSONYとPHILIPSが共同でフォーマットを決め登場したSACDだったのに、一斉にCDのSACD化がすすまないので様子を見ていたら(むしろSACDは衰退して)いつのまにか20年経っていた。

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投稿者:ashida1670 | 16:20 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 顧客対応とは何か ― 不安の源泉は時間である。 2018年10月23日

お役様相談センターなどで散々待ったあげくやっとつながって(「大変お待たせ致しました」との謝罪で始まるのだが)、相談しているとやはりそこでは処理できずに話の途中で「少々、お待ちください」と言われることがよくある。

もうこうなったら何時間でも待ちますが、「少々」と言われても1分なのか10分なのか100分なのかこちらでは全く分からない。100分と前もって分かるのなら、全然待てますが。

対応担当者としては、「たぶん(これまでの経験では)2,3分で終わるだろうと。ほんとにすぐ終わるだろうから、だから『少々』と答えました」と言うつもりだろうが、そう言われた相手は、その「つもり」は全く読めない。

時間はいつも前から流れる。後ろは見えない。前にあるものは、「少々」という言葉しかない。5分待つのも、100分待つのも同じ。5分で終わるか100分で終わるか結果=終わりが分からない、前から進む時間にさらされた人にとっては。

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投稿者:ashida1670 | 23:49 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 ノート論 2018年05月16日

1)ノート論

授業が〝わかる〟とか〝わからない〟とかいう場合の一番切実な問題は、学生一人一人の理解の水準に授業(授業教員)が対応できないということである。

理解の〝水準〟と言っても、それは学生の基礎学力に差があるということではない。〝水準〟というより、すべての人間(学生)は同じひとつのことを学ぶにしても、様々なプロセスを通して〝理解〟に至るのであって、一人の教員が授業で行う展開は、たんに一つの理解プロセスをシミュレーションしているにすぎない。

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投稿者:ashida1670 | 11:46 | 感想を見る・書く (1) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 表現の成立について(メモ) ー 検索か、終わりか 2018年05月03日

いろいろな〈思い〉が、言葉の〈表現〉の〈より先に〉あるとすれば、〈表現〉の課題は、言葉の時間過程なのだから、〈思い〉の存在は、時間がかかる言葉の展開と絶えず矛盾する。そもそも時間をかけて繰り出した言葉の全体も、最後まで読まれないかもしれない。なにから言葉にすべきか、なにをもってピリオドを打つか、これは極めて人工的な(意識的な)行為だが、それも、〈表現〉が時間的なものとの戦いによって構成されているからだ。

そもそも、何をもって〈終える〉か、というのも、コンピューター(AI)には無縁の時間であって、コンピューターの本質は、やらせればいくらでも終えずにできることを本質としているのだから、ピリオドを打つという行為は人間に固有なことなのである。

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投稿者:ashida1670 | 23:15 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 新入生歓迎の言葉(フレッシュマンキャンプにて) — 大学を選ぶことは、テキストを選ぶこと 2018年04月06日

新入生歓迎の言葉(蒲郡にあるホテル竹島にて)

ご入学おめでとうございます。教職員を代表してご挨拶させていただきます。

ご挨拶代わりに、大学とこれまでの高校までの勉強のどこが違うのか、そのことに限ってお話させてください。

まずは、この学生生活の四年間、〈検索〉するなと言いたい。もちろんWikipediaも使うなと。

高校までの学習は、教科書による学習。

誰が書いてるのかの著者名は書かれているが、その誰かがどんな思想の持ち主かは書かれていない。Wikipediaになるともっとその洞察はやっかいなものになる。

大学の勉強は、その誰かの言うこと、書くことを評価し、吟味するためのもの。あるいは、一つのテキストや解説をみただけで、それを誰が、どんな思想の持ち主が書いたのかを洞察する能力を身につけること。それが大学で勉強する意味。

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投稿者:ashida1670 | 09:58 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 人工知能(AI)と機能主義の諸問題(1) ― 日経BPnet「ストック情報武装化論」連載(第五回) 2018年03月31日

人工知能(AI)と機能主義の諸問題(1) ― 人工知能ほど主体的で人間的なものはない。

●機能主義と行動主義 ― 「内面」とは結果に過ぎない。

機能主義の基本モデルは、簡単に言えば、「パブロフの犬」の条件反射。刺激を与えると一定の規則だった反応があるというもの。

機能主義は英語のfunctionalismの訳だから、むしろ関数(function)主義と言った方がわかりやすい。「パブロフの犬」に於けるベルの音と犬の食欲を表す唾液は、関数関係にあるわけだ。

刺激(INPUT)と反応(OUTPUT)との間にある形式的な規則性が認められれば、その反応体(と取りあえずそう呼んでおこう)は何ものか「である」と。

機能主義は、どんな内容(=実体)がその刺激と反応を支えているのかは棚に上げて、刺激(INPUT)と反応(OUTPUT)というテーマ化された観察対象だけを基盤にして内容を逆構成するという離れ業をやってのける。

近代経済学が前提とする行為者の合理性理論(rational choice theory)、つまり自由な判断主体を前提して最大利益の獲得を目指す合理的な個人というのは、この機能主義で言えば、幻想に過ぎない。最初に合理的な思考をする個人ありきという立場、つまり自らの不利益をわざわざ招くような行動をする人間は存在しないという立場に立たないからだ。

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投稿者:ashida1670 | 11:57 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 Twitterについて ― 日経BPnet「ストック情報武装化論」連載(第三回+第四回) 2018年03月30日

●Twitterとは何か(1) ― 電話からTwitterへ、あるいはポストGoogleの課題

Twitterの特長は、同期性だ。ブログやSNS、掲示板やチャットとどこが違うのか、とよく話題にされるが、Twitterは携帯電話の延長にあると考えて良い。

電話はもともとが同期メディアだった。「同期」というのは、発信者と受け手とが同時に存在しているということだ。話し手、聞き手が同時に〈そこ〉にいるという実在性が電話コミュニケーションの基盤をなしている。

ところが、電話の特長であるこの同期性が薄れてきた。留守録機能と着信通知機能(あるいは着信非通知)が電話の同期性を殺いでいる。おまけに持ち運びが手軽にできる携帯電話は同期という時間性だけではなく、場所の制約も相対化してしまった。

電話の同期性は留守録機能と着信通知機能によって意識的な選択の対象になり、自然な時間性(あるいは場所性)を回避するようになってきている。

人々は「便利」だと思っていた電話の同期性(や場所の特定)をむしろ「うざい」と思い始めたのである。

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投稿者:ashida1670 | 09:52 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 「電子書籍」について ― 日経BPnet「ストック情報武装化論」連載(第二回) 2018年03月29日

●iPad現象と電子書籍の現在

古典と呼びうる芥川賞的な「純」文学と直木賞的な「大衆」文学とは何が異なるのか?

両者に截然とした差異があるわけではないだろうし、サブカルチャーの水準は従来よりははるかに高度化しているが故にますますその差異を見極めることは難しいだろう。しかしにもかかわらずその差異は相対的には存在している。

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投稿者:ashida1670 | 23:24 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 「オンライン自己」について ― 日経BPnet「ストック情報武装化論」連載(第一回) 2018年03月29日

先日、私のTwitterのフォロワーから、日経BPnetに2010年から連載していた「ストック情報武装化論」(第一回~第九回)が読めなくなっていると聞いて、ブログに掲載することにしました。

なお、この「ストック情報武装化論」は、書き切れなかった最終回も含め再編集して(大幅な加筆修正を施して)、近々出版されます。最初の回は「オンライン自己」について。当時、結構反響を頂きました。出版の原稿は、この四倍の分量になっており既に出来上がっていますが、とりあえずはこの短編で我慢してください。

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91年の大学大綱化から早くも30年近く経った。「大綱化」の基本はカリキュラムの自由化。総単位数124単位以上取れば卒業できるようになった。従来存在した分野別の必修単位科目は設置基準上はなくなり、大学は自由にカリキュラムを組めるようになった。

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投稿者:ashida1670 | 19:21 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 吉本隆明全集(晶文社)第三巻「月報」 ― 「転向」について 2017年01月13日

●「転向」について (芦田宏直)

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私は、吉本さんと個人的に対面したことは一度もない。私の家内が学生時代(今から四〇年ほども前)、吉本さんを神田の古書街で見付け、彼がどんな本を買おうとしているのか知りたくて追い回したことがある。

吉本さんは、いくつか書店を出入りする内に家内の尾行に気づき、早足になり、最後にはしつこい家内を追い払おうとパチンコ屋に飛び込んだらしい。家内もそれにめげず初体験のパチンコ屋に潜入し、裏口から出る吉本さんを追尾し続けた。

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投稿者:ashida1670 | 18:11 | 感想を見る・書く (1) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 あけましておめでとうございます ― 往き道と帰り道の年頃 2017年01月01日

一昨年の引っ越し=全額住宅ローンのマンション購入の大事(還暦越えの二〇年ローンの大事)に次いで、昨年はもっと印象に残る大事が年末に起こりました。

現在刊行されつつある吉本隆明全集(晶文社刊全38巻)第3巻「月報」の原稿依頼があったのです(発刊日は昨年の12月30日)。※http://www.yoshimototakaaki.com/

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投稿者:ashida1670 | 10:57 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 60歳も優に過ぎて郊外の戸建て住宅を建て替える暴挙について ― 自分の家庭を賢く捨てることについて 2016年07月18日

60歳もすぎて子供にも手がかからなくなり、仕事も徐々に減ってくると、人生の集大成のように家を建て替える人がいるが、自分が歳を取ると自宅内なのに2階にさえ上がれなくなるし、ちょっとした段差にも躓き始めるというのを忘れている人がいる。

要するに、子供に手がかからない分、自分自身に手がかかり始めるのだ。子供は成長して自立するが、自分はどんどん手がかかり始める。死ぬことさえ自分でできない状態に陥る。

超遅い自宅用エレベータは2階へあがるのがもっと面倒。2階へ上がる気それ自体を殺いでしまう。そもそも超高層マンションの最大の屈辱は、自宅に着いているのにエレベータを待つことなのだから。超高層の最大の恩恵は低層階の人があの一階共有エントランスや共有スペースの豪華な環境を自室から歩ける距離で満喫できることにある。私なら人工林にしても植栽で目隠しになる部屋を選びに選んで超高層の2階に住む(笑)。

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投稿者:ashida1670 | 16:00 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 大学入試改革と学校教育の意味 ― ペーパーテストは民主主義の原点 2016年05月20日

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●今回の入試改革の趣旨と変遷

大学入試改革は、3年間にわたって三つの報告にまとめられて提案されています。一つは、一昨年の教育再生実行会議(安倍政権の私的諮問機関)第四次提言(二〇一三年十月三十一日) ― 以下「提言」と略す。二つ目が「新しい時代にふさわしい高大接続の実現に向けた高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜の一体的改革について」(二〇一四年一二月二二日中央教育審議会答申) ― 以下「一体改革答申」と略す。三つ目が今年三月の高大接続システム改革会議「最終報告」(二〇一六年三月三十一日) ― 以下「最終報告」と略す。

三年前の「提言」は、マスコミによって「人物評価主義の入試方式」とまとめられましたが、今回の「一体改革答申」(二〇一四年)と「最終報告」(二〇一六年)では、「人物評価」という言葉はすっかり消えて、そのキーワードは、二〇○七年教育再生会議の「教育三法の改正」による「学力の三要素」 ― 正確に言うと「学力の3要素」を多面的・総合的に評価するものに転換する」入試改革 ― に変わっています。

人物評価入試論の不評(あるいは誤解)に配慮した文科省が、入試改革趣旨のロジックを変えたのです。こういう変更を民主的な文科省はよくやります。最近のものでは、新大学(職業専門大学という仮称で呼ばれているもの)のターゲット人材層を「中堅」人材→「中核」人材(または「ボリュームゾーン」)と言い換えるのもその実例の一つです。

もっとも、「提言」の中では、「人物評価」という言葉は一回しか出てきません。「人物評価の重視に向けた見直し」(提言八頁)が、平成十四年以降の公務員採用において「図られてきており、引き続き能力・適性等の多面的・総合的な評価による多様な人材の採用が行われることが期待される」とあるだけです。

ここで言う「能力・適性等の多面的・総合的な評価による多様な人材の採用」は、入試選抜に関わる文脈では、「能力・意欲・適性や活動歴を多面的・総合的に評価・判定するものに転換する」(提言七頁)という言い方になります。この両者に共通する「多面的・総合的」評価という言葉は、「知識偏重の1点刻みの選抜」評価に向けられた言葉です。

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投稿者:ashida1670 | 23:30 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 「実践的職業教育を担う新しい大学制度について」~公開パブリックコメント:高度な産業人材育成に何が求められるのか~ 基調講演とモデレータを務めます。 2016年05月14日

【高度産業人材育成シンポジウム】
「実践的職業教育を担う新しい大学制度について」~公開パブリックコメント:高度な産業人材育成に何が求められるのか~
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【開催概要】
日時:2016年5月19日(木)19:00~21:00
場所:富国生命ビル14階・第4セミナールームA
   :(東京都千代田区内幸町2-2-2)
最寄りの駅:
都営地下鉄三田線「内幸町」駅 A6出口 直結
JR山手線・京浜東北線・東海道本線「新橋」駅 日比谷口 徒歩6分
東京メトロ千代田線・日比谷線「霞ヶ関」駅 C4出口 徒歩3分
東京メトロ丸ノ内線「霞ヶ関」駅B2出口 徒歩5分

定員:200名(先着順)
参加費:無料
お申し込み・連絡先は、株式会社ベクトル 担当:川上、堀井
TEL:03-5572-7334 FAX:03-5572-6065 MAIL:s-kawakami@vectorinc.co.jp

主催:政策分析ネットワーク(代表 伊藤元重・東京大学)

協力:新日本有限責任監査法人

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投稿者:ashida1670 | 20:07 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 社会・経済の変化に伴う人材需要に即応した質の高い専門職業人養成のための新たな高等教育機関の制度化について(審議経過報告)に関するパブリックコメントについて 2016年04月19日

昨日締め切りの「社会・経済の変化に伴う人材需要に即応した質の高い専門職業人養成のための新たな高等教育機関の制度化について(審議経過報告)に関するパブリックコメント(意見公募手続)の実施について」 http://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=185000825&Mode=0 、とりあえず最低限のことは書いて出しておきました。
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今回の「社会・経済の変化に伴う人材需要に即応した質の高い専門職業人養成のための新たな高等教育機関」(以後、「新大学」と省略する)について、2点、疑問に思うところがあります。

一つには、この新大学の法制化については、学校教育法第83条「大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする」の内部で行われようとしているのかどうか、という点です。

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投稿者:ashida1670 | 00:41 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 朝日新聞GLOBEの「入試とエリート」(3月6日)、および日本経済新聞の「大学入試新テスト、記述式導入 有識者会議が最終報告」についての「識者の味方」(3月25日)の私のコメント補遺 2016年03月29日

朝日新聞GLOBEの「入試とエリート」(3月6日)の中の私の記事「点数主義の方が多様だ」 http://globe.asahi.com/feature/article/2016030300006.html?page=4 、および日本経済新聞の「大学入試新テスト、記述式導入 有識者会議が最終報告」 http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG24H49_V20C16A3EA2000/ についての「識者の味方」(3月25日)の私のコメントで話しきれなかった部分を以下で補っておきます。

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〈学力〉とか〈知力〉とか〈思考力〉というのは、それらの能力が〈現在〉と〈個人〉に集約されているために、短い時間の紙試験であっても、あるいは一回の紙試験であってもそこそこの選抜が可能になりますが、人物評価における〈人物〉というのは、長い時間(=環境)によってできあがったもの。だからその評価は、〈個人〉と〈現在〉を超えたものの評価になります。一般的に言って、自他観察、自他評価の時間が短ければ短いほど個人性は高まり、長ければ長いほど環境性が高まります。

結局、ハーバードも、親の知性、親の文化、親のダイバーシティを選抜しているに過ぎないと言えます。

富の再配分ということを言う人たちがいますが、それは、すでに起こってしまった格差に対する後追いの配分(厚労省的な配分)。だから福祉的なコストがかかりすぎる。

それに対して〈学校教育〉は、前配分。〈学校教育〉は教室に入れば皆平等という前提に立っています。同じ教室で同じ教科書で同じ先生に学ぶ。この〈同じ〉は、親の違い、地域の違い、階層の違いを相対化する〈同じ〉なわけです。学校教育の教育力を高めることこそが前配分機能を高めることになります。

教育における〈多様性〉とは、個人的な多様性や個性のことを言うのではなくて、社会的なリーダー層の中に〈多様な階層〉から選抜された人たちが活躍している状態が作り出せるかどうかを言うのです。学校教育における〈多様性〉問題を、人物の個性や多様性、というふうに理解してしまうと、ふたたび厚労省的なコストが跳ね上がっていくことになります。

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投稿者:ashida1670 | 01:53 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 大学入試改革を議論する文科省「有識者会議」(座長・安西祐一郞)の最終報告について 2016年03月27日

●〈人物〉評価とは身分の評価でしかない

安倍政権の「教育再生実行会議」(座長:鎌田薫・早大総長)が、大学入試(センター入試)を〝人物重視〟に改める提言を10月末日(2014年)に発表しました。また昨日25日(2016年)は、その「教育再生実行会議」の議論の延長上で、大学入試改革を議論する文科省「有識者会議」(座長・安西祐一郞)の最終報告がなされました。後者の力点は「知識偏重」に対する記述式問題の導入という観点です。

こういった動きに関連して、私は、まずは朝日新聞朝刊社説面(オピニオン欄)で「脱・点数主義の罠」(2013年11月12日)として論じましたが、ここではさらにその論点を詳述してみたいと思います。

「人物本位」の大学入試に問題があるのは、〈人物〉評価というのが、生まれたときからの長い時間を経た、本人の意識や努力にとどまらない要素、つまり環境(ハビトゥス) ― 家族やその交友関係や地域の文化環境 ― によって左右される部分が相対的に大きいからです。

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投稿者:ashida1670 | 04:12 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 三ヶ月後の2016年年賀状公開(笑) 2016年03月24日

明けましておめでとうございます。


歳を取ると年月の流れが速くなると言いますが、それはたぶん何をするにしても「最後の…」ということを意識するようになるからでしょう。若いときには何度も失敗が許されたのかもしれませんが、さすがに“失敗”が許されない年になりました。溜(ため)の効かない年になったのかもしれません。そもそも歳を取るということはそれ自体が〈溜〉だからだ、ということでしょう。

若いときには無知が行動力の源でしたが、何に付けても即断できるストックのあることが大人への社会的な期待でもあります。ストックに基づいた即断をこそ〈分別〉と呼び、それは始まりにして終わりを見据えることとほとんど同義です。時の流れを終わりにおいてみる(向こう側からみる)、ということを〈分別〉と言うのかもしれません。

そしてたぶん、その本質は、終わりの時を待てることです。若いときほど待てないのです。〈待つ〉には〈溜〉が必要だからです。終わりを“知る”溜が必要だからです。

深い絶望や失望を乗り越えるときには、どんな知恵や認識、友情に厚いアドバイスにも先だって、時間という機縁が届く必要があります。結果が分かっていることとそれを受け入れる事との間には千里の径庭があるのです。〈それ〉を〈待つ〉前に言いたくなる、説明したくなるようにして努力や知性が存在していますが、そんなものをいくら重ねても〈それ〉=〈時間〉はやって来ない。

従って、〈溜(ため)〉とは、老いぼれの観望や諦念の溜ではなくて、耐忍の〈溜(ため)〉です。ドイツ語には、日本語の「耐忍」を意味する言葉でAustrag(アオストラーク)という言葉があります。ハイデガーが後期になって好んで使った言葉です。

Austragは「耐忍」と同時に、「胎児を臨月まで持ちこたえる」という意味もあります。Aus-trag、外-運び(あるいは外-持ち)という意味です。まさに終わり(胎児)を生みだすことのための待つ耐忍なのです。

逆に、人が努力や知性を積んでいくのは、黙することの技法(本体の知性)を得るため。優勝したときにのみ人前での苦労話が許されるスポーツ選手のように。老いることの本質(“溜”の本質)は、結果論(昨今のコミュニケーション=OUTPUT主義)で騒ぐことにあるのではなく、待つことの沈黙を汲み取ることにあると思います。

“老いる”ことの本質、言わば熟成とでも言えるものは、その意味でほとんどマザーシップと同義です。誰に対しても優しい親父になりたいと思う今日この頃です。→「にほんブログ村」

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投稿者:ashida1670 | 19:37 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 ソーシャルメディアにおける〈ソーシャル〉とは何か 2016年03月10日

(…)ツイッターの微分機能は…携帯でもないし、電話でもないし、チャットでもない新しい次元を切り開いたわけです。

これは内面を現在で微分しているという意味ではすごく内面を強化しているけれども、タイムラインがどんどん内面を解体していきますから、携帯電話やメールのようなきつい感じにはなっていかない。飽きず疲れず時間を忘れるのがツイッターの本分で、僕なんか何回自分の駅を通りすぎたことか(笑)。もう着いちゃったみたいな。〈現在〉という時間はむしろ時間を無化するのです。

新幹線の大阪 ― 東京ぐらいだったら苦もなく時間を過ごせるというのがツイッターの面白さです。内面の現在を共有するということは、従来は少数の他者との関係を知ることであったにも関わらず、ツイッターでは多数の他者との現在を簡単に増大させることができる。

よくフォロワーを増やすのは大変だと言う人がいますけれども、フォローを増やせば、フォロワーは増えます。フォローを二〇〇〇人もすれば五〇〇人ぐらいはフォロワーは絶対に出てきます。メディアに登場したことのない無名の人が五〇〇人も読者を持つなんて、これまでの歴史にはなかったでしょう(笑)。

そういう意味で言うとすごく革命的なツールで、そこがミクシィとは違うところです。ミクシィで五〇〇人集めようとすれば大変でしょ。僕なんかいろんな作戦をたてて足跡を追跡しまくりました。一年かけて五〇〇名がやっとです。しかし、ツイッターはただクリックすればいいだけだからどうということはない。一週間で一〇〇〇名くらいは集められます。

フォローすればフォロワーは増える。このフォロー者とフォロワーとの非対称性が、内面のきつさを緩和しているのです。ミクシィもフェイスブックも、"承認"が必要ですから、互報性の原理が機能しています。必ず相手にしてよね、というものです。どちらも村落的で奴隷的なのです。それがツイッターの他者関係にはない。

現在と他者を微分によって拡大し、三〇〇〇人も四〇〇〇人もの現在のつぶやきを見ていけば、必ず自分と話題が共通するツイートがタイムライン上に出てきます。だから、どんなに性格の曲がった人間であったって、ある種の社会性を獲得することができる。どんなにストックのない人でも社会性を獲得できる。

しかもその社会性は著名人の日常と接触することによって著名人とカレーライスの話をすることもできるし、僕なんか(有名人ではないのですが)紅ショウガのいっぱい入った牛丼ツイートのときしか話題に入ってこない人がいるわけです(笑)。

そこじゃないだろうと思っていても(笑)、牛丼が好きな人とはそういうチャンネルになっていきます。すると牛丼食っている人から「趣味が合う」ということになります(まさに合っているわけです)。そういう人がやっている哲学とは何だろうかと思い始める。すると牛丼しか関心を持っていなかった人が「ハイデガー」なんて言い始める(笑)。これが〈ソーシャル〉です。

― 『努力する人間になってはいけない ― 学校と仕事と社会の新人論』338頁より→「にほんブログ村」

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投稿者:ashida1670 | 22:07 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 成人式を迎えるあなたへ ― 大人になるというのはどういうことなのか 2015年01月11日

大人になって〈自立する〉というのは、自分が使いたくないものにもお金を使うということを意味しています。われわれは〈光熱費〉にお金を使いたいなんて思いません。〈アパート代〉もできればなしで済ましたいと思っています。

しかし社会人になるということは、使いたくないものにも自分のお金をかけるということと同じです。そういうものを自分で担えるようになることを「大人になる」と言います。

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投稿者:ashida1670 | 19:48 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 バカな若者について-人材育成の諸課題(増補改訂版ver5.1) 2015年01月10日

「会えない時間が愛育てるのさ」と郷ひろみは言いました。歌のタイトルはまさに『よろしく哀愁』だったわけです。「哀愁」(OUTPUTのないINPUT)こそが〈育む〉ことの原理なのです。

まさに大学受験勉強などは、それゆえ、「哀愁」の勉強だったわけです。最近の若者は、「哀愁」に「よろしく」が付いている意味がわからない(中曽根臨教審から最近の教育再生実行会議までの教育思想の犠牲になっているとも言えますがhttp://www.ashida.info/blog/2014/07/post_429.html#more)。昨今のコミュニケーション論の対極にある言葉が「よろしく哀愁」です。

さて昨年12月29日の忘年会のこと。若い人のよくある勘違いに出会った。

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投稿者:ashida1670 | 12:02 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 世界一早い第65回NHK紅白歌合戦全曲速報ver.3.0  ― 今年のテーマは「歌おう。おおみそかは全員参加で!」。 2015年01月02日

今年(昨年)の紅白歌合戦は、特にこれといった特長のないものとなりました。吉高由里子さんの司会も、昨年の綾瀬はるかさんの司会に較べてそのぶっきらぼうさでは変わりが無いのですが、うまく回転していなかったように思います。

綾瀬はるかさんには、天然であってもひたむきな感じと紅白を天然として楽しんでいる風情が感じ取れましたが、吉髙さんの天然にそれはなかった。この差が、今年の紅白のすべてだったのかもしれません。あまりにも気が散逸して、股が開きすぎていた吉髙さんが気になった今年の紅白です。

今年は、10月末に引っ越しをした2ヶ月目での新居での紅白観戦でした。引っ越しをまったく手伝わなかった息子の太郎も、はじめての新居で迎える大晦日でした。家内の再発なしの記録も4年目を迎え、今年もリビングでの三人紅白観戦ができました。「もうこんなに疲れる紅白観戦はやめようよ」と家族から毎年不評ですが、2002年から続いているこの”行事”をやめるわけにはいきません。なによりも「やめたい」と思っているのは私なのですから。やめたいと思っていても続けるのを〈人生〉というのです。それが動物と違う人間の〈生〉、と思う今日この頃。

では49番目の聖子さんの、完全にすべっていた歌で終わる65回紅白の全曲評、どうぞ。

※ツイートは、誤記を含めて(少々)修正しています。
※直後のツイートも(少々)収録しました。
※今年も紅白直後にtogetterで、私のツイートをまとめて下さる方が登場http://togetter.com/li/764452。3日目で30000viewを超えました。その分、BLOGの閲覧者は下がり続けています(笑)。リアルタイムツイッターには、さすがのBLOG発信も負けてしまします。私の紅白評も「速報」が特徴でしたが、ツイッターの速報性にはかないません。今年は、私の速報に「いちゃもん」を付けてくる人にもその場で〝対応〟しましたので、togetterのタイトルにも「いちゃもんとクソリプ対応」というタイトルが付きました(笑)。もちろん私が付けたタイトルではありません。悪しからず。

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投稿者:ashida1670 | 02:18 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 何が実践的な教育なのか ― 多様性にまみれない教育こそ、学校教育の意味 2014年10月13日

1. 少し時間が経ったが、この間、辻調の自己点検評価委員会に参加して、久しぶりに興奮する議論があった。

2. 実務の現場では、たとえば、卵一つにしても、学内実習のように新鮮な卵ばかりが使えるわけではない、様々な理由で鮮度の落ちた卵を使わざるを得ない場合もある。

3. そうすると、ある意味理想的な環境で学んできた学生の料理の技術がたちまち頓挫する場面も多々出てくる。

4. いつも、〝上級〟の食材で学ぶのではなく、〝中級〟〝下級〟の食材や環境で学ぶことが職業教育本来の実践的な教育ではないのか。

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投稿者:ashida1670 | 02:02 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 増補版・高校生のための進路決定ガイダンス ― 学歴と収入との関係について 2014年07月13日

7月10日に、とある私立高校の女子3年生100人にレクチャーした際に使ったパワポを再掲します。「男子の収入に子育てを頼ることができない時代」(この講演での私の再三のフレーズ)の高校生女子のために作った資料です。

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投稿者:ashida1670 | 04:39 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 大学入試改革(教育再生実行会議)の時代錯誤について ― 〈人物〉評価とは何か。 2014年07月03日

『教育と医学』http://www.keio-up.co.jp/np/kyouiku.do編集部(慶應義塾大学出版会「教育と医学」編集部)から、大学入試改革についての記事依頼があり、20枚ほどにまとめてみました(まだまだ書きたかったのですが)。『教育と医学』2014年7月号(733号)の「特集2・大学入試制度改革の動向と影響」に掲載されています。編集部のご協力、了解を得て、転載します。

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大学入試改革(教育再生実行会議)の時代錯誤について ― 〈人物〉評価とは何か。

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投稿者:ashida1670 | 19:28 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 本日のテレビ出演(フジテレビ「新報道2001」)において、私の言いたかったこと― 「小保方問題」と「コピペ問題」について(増補版) 2014年04月20日

●「小保方問題」について

1)「小保方問題」ですが、これについては、まずは「ありえないこと」の発見を彼女は「ある」と下手な仕方であっても叫んだのだから(つまり、コピー疑惑以前に、明らかにみんなの疑惑を生む主張をしたのだから)、ちまたの科学者たちが、「ミューズ細胞」「OCT4」発光の勘違い説などでいまさら騒ぐのはおかしいということ。それほど(勘違いさえわからないほど)に理研や小保方さんや共同執筆者たちの質が低いというのなら、話は別だが。これらの事態は、いずれにしても論文発表以前の話だ、と私は理解している。

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投稿者:ashida1670 | 16:08 | 感想を見る・書く (2) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 世界一早い第64回NHK紅白歌合戦全曲速報  ― 今年のテーマは「歌がここにある」 2014年01月07日

今年(2013年)もこの季節がやって参りましたが、Twitterのようなメディアが出てきたために、昨年は1日遅れ、今年は1週間も遅れてしまいました。Twitterをやらない旧来のブログ読者の方にとっては、堕落です(笑)。申し訳ありません。

今年もまた、恵比寿に住んでいる息子(http://www.ashida.info/blog/2008/03/post_279.html)は、紅白歌合戦の前日30日から品川・御殿山の我が自宅に戻り、昨年と同様、家内含めて3人の紅白観戦となりました。特筆すべきは、もう10年近く難病を患っている家内(http://www.ashida.info/blog/cat8/)も、昨年同様19:15~23:45までの4時間半、リビングで紅白を見ることができたということです。一昨年の一月(2012年)以来、この1月で2年間も再発がなく、10年以上(年に半年は入院していた10年間でしたが)再発が一回もないこの二年目の1月を迎えることが出来ました。その年の締めくくりにふさわしい紅白鑑賞でした。

今年のTwitterの閲覧数(http://togetter.com/li/609958)は、30,000view(1月7日段階)。おかげで、ブログの閲覧数は減りました(笑)。

今年の紅白は、綾瀬はるか+嵐+ふなっしー(+鉄拳)の紅白歌合戦となりました。ダメだったのは、ビデオ挿入によりナマの迫力が殺がれたことと、「あまちゃん」のお仕着せ的な演出(見ていた人にしか分からない演出)が鼻についたことです。その点でも綾瀬はるかの天然の「泣き」にまずい演出が救われていました。

では、今年の全曲速報、どうぞ。

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投稿者:ashida1670 | 03:18 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 2013年度恒例忘年会(今年は新刊記念忘年会となりました) 2013年12月07日

12月21日土曜日19:00~(23:00まで)銀座で開催します(会費は5000円~)。初参加の方は特に歓迎します。

詳しくは以下「続きを読む」をクリック

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投稿者:ashida1670 | 23:32 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 芦田宏直×本間正人 トークセッション『ソーシャルメディア時代に求められる人材像とは?』(芳林堂高田馬場店) 2013年11月16日

芦田の新刊『努力する人間になってはいけない ― 学校と仕事と社会の新人論』を記念して、11/8 (金) 芳林堂書店・高田馬場店(東京)にて行われた、芦田宏直と本間正人先生のトークの記録­です。企業が求めるのは"コミュニケーション能力"っていうけれど実際は?!

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新刊において、学校教育における「キャリア教育」の諸課題を指摘しましたが、コーチングの第一人者­・本間正人氏がその芦田に疑問や異論をぶつけます。ふるってご視聴ください。視聴は「続きを読む」をクリックしてYouTube画面の再生ボタンをクリックして下さい。

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投稿者:ashida1670 | 11:56 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 「マージナル大学に対して遠くとも確固たる目標をつきつける芦田氏の論考」― 『努力する人間になってはいけない ― 学校と仕事と社会の新人論』書評 2013年10月01日

 芦田宏直氏の論考がついに書籍になった。様々な理由から私は芦田先生のブログや講演の書籍を待ち望んでいた。著者の論考は、大雑把に言うと、「学生に向けられた言葉」「大学関係者に向けられた言葉」「社会人全体に向けられた言葉」「機能主義批判」の4つに分けられる。本書はそれらをすべて盛り込んだ内容になっている。哲学的な難解な文体が後半になればなるほど濃厚になってくるが、その合間合間にも、哲学の門外漢にとってもはっとさせられる箇所がたくさんある。特に、学生や大学関係者、そして職場で若い人を育てる立場にある人達に読んでもらいたい。特に、「大学全入時代の学生を人材として育てる(17頁)」という困難な課題に立ち向かおうとしている大学教員にとっては、必読である。

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投稿者:ashida1670 | 08:58 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 社会とはかけ離れた『哲学』の存在が、著者を実社会と強く接続させているように見える ― 『努力する人間になってはいけない ― 学校と仕事と社会の新人論』書評 2013年09月24日

また力作書評を頂きました。「黒夜行」さんという方の書評ブログです。以下、全文掲載します。

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本書は、なかなか一言では説明できないほど多様な文章が詰め込まれた、社会人を応援する書でもあり、学生を鼓舞する書でもあり、哲学的思考に浸れる書でもあり、教育界に一石を投じる書でもあります。

タイトルは非常にインパクトがありますが、別に努力を否定する作品ではありません。

本書は、先程も書いたように、とにかくあらゆる種類の文章が整理されつめ込まれているので、とてもそのすべてに触れるわけにはいきません。これだけ玉石混交なのは(文体や考え方がではなく、触れられているジャンルがということ)、本書の元になったのが著者のブログだからでしょうか。非常に難しい(と僕には思える)哲学的な話もあれば、電車の中で出会ったとある少年との邂逅の話なんてのもあったりします。触れられているジャンルは多岐に渡りますが、著者のスタンスは常に一貫している(ように僕には思える)ので、作品全体としては統一感を感じさせる作品でもあります。

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投稿者:ashida1670 | 17:51 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 痛烈な機能主義批判 ― 芦田宏直『努力する人間になってはいけない(学校と仕事と社会の新人論)』を読む 2013年09月17日

祝スピーチを頂いた中西先生(http://www.ashida.info/blog/2013/08/201387_8.html#more)から書評を頂きました。以下、全文御紹介します。

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本書のハイライトは第9章「ツイッター微分論 ― 機能主義批判と新人論と」です。ハイライトでもあり、最も難解なこの第9章のために、著者は第8章まで読者を騙し続けます。あたかも、若者向けの啓蒙書のように。この本は決して啓蒙書ではありません。(特にわれわれ心理学者にとっては) とても危険な本です。

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投稿者:ashida1670 | 10:48 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 本日、津田大介さんと二時間ニコ生対談行います(20:00~22:00) 2013年09月02日

本日20:00から、津田大介さんがホスト役のニコ生動画放送に出演します。【@jai_anが今、改めてTwitterを語る!】津田ブロマガ eXtreme #14 (番組ID:lv150568559)  http://live.nicovideo.jp/watch/lv150568559

内容は

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投稿者:ashida1670 | 02:28 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 『努力する人間になってはいけない ― 学校と仕事と社会の新人論』感想 Part2(…でも、哲学の人だから、そこから突っ込んで来てしまうわけで、そういうの面倒くさいと思うか…) 2013年08月16日

7日の出版記念パーティーが終わって(http://togetter.com/li/545497)、一週間後の14日そろそろ感想聞かなくてはと参加していた某超大手広告代理店の中堅二人を、ロイヤルホスト高輪店(笑)に呼び出して、一週間後の話を聞いてみた。

なんと18:00に待ち合わせて、終わったのが、24:30。そもそもメニューを決めるまでに思わず話し込んで2時間ほど話し続けていたから、そんな時間になってもおかしくはない。ロイヤルホストにしておいてよかった(笑)。以下は、その参加者の一人がまとめてくれた記念パーティー解題講演と本の感想の一部です。

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アルバイト店員が内輪受けの悪ふざけをソーシャルメディアに投稿して炎上するという事象が方々で沸き起こっている流れで、低学歴高学歴という言葉を最近よく目にします。

ものすごく差別的かつ刺激的で極端な言い方をすると、低学歴高学歴というよりも家庭や地域でのしつけや教育の差、つまり親や地域の教養や品格のレベルの差と捉えるべきなのではないでしょうか。

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投稿者:ashida1670 | 19:02 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 『努力する人間になってはいけない ― 学校と仕事と社会の新人論』の(このブログの長年の読者から)長文感想文を頂きました。 2013年08月15日

弘中百合子(ロゼッタストーン社)様

K(実名になっていますが、略します)と申します。出版記念パーティ&(朝まで)講演会では大変お世話になりました。おかげさまで、非常に楽しく有意義な時間を過ごすことができました。ありがとうございました。196人目でギリギリ滑り込むことができて、ほんとうによかったです。

アンケートを拝受しましたが、ようやく宿題=感想文を書き終えましたので、以下をもってアンケートへの回答に代えたいと思います。それでは、芦田先生によろしくどうぞ。

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ブログ「芦田の毎日」の「10年来の読者」(440頁)の45歳男(大学教員、札幌在住)です(ツイッターはやってませんがツイログをいつも拝見しています)。

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投稿者:ashida1670 | 16:47 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 長男・太郎(家族を代表して)・祝スピーチ_2013年8月7日出版記念パーティー(於・日本外国特派員協会) 2013年08月10日

●長男・芦田太郎の御礼スピーチ

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http://www.ustream.tv/recorded/36969901/highlight/395061

息子の太郎です。今テレビ朝日で働かせていただいているんですけれども、コネ入社ではありません(笑)。

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投稿者:ashida1670 | 11:57 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 若林靖永さん(京都大学)・祝スピーチ_2013年8月7日出版記念パーティー(於・日本外国特派員協会) 2013年08月10日

●若林靖永さん(京都大学教授・マーケティング)の祝スピーチ

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http://www.ustream.tv/recorded/36969901/highlight/395059

(会場での若林靖永さんの紹介)
若林靖永(やすなが)先生は、京都大学教授。ご専門は、マーケティング。著者芦田宏直氏のTwitter微分論の早くからの共鳴者のお一人。2010年初頭、生まれたばかりのTwitter微分論講座を大阪梅田で開催された方です。今日はお忙しい中、京都から、駆けつけてくださいました。では、若林先生、祝スピーチ、よろしくお願いします。


今ご紹介いただきました、京都大学の若林と申します。

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投稿者:ashida1670 | 11:52 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 中西大輔さん(広島修道大学)・祝スピーチ_2013年8月7日出版記念パーティー(於・日本外国特派員協会) 2013年08月10日

●中西大輔さん(広島修道大学准教授・心理学)の祝スピーチ

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http://www.ustream.tv/recorded/36969901/highlight/395057

(中西大輔さんの会場での紹介)
中西大輔さんは、知る人ぞ知る広島修道大学准教授。専門は実験心理学(進化論・適応論をベースとした社会心理学)。芦田宏直氏が終生の敵と見なしている機能主義心理学の代表者のお一人です(この他にも帯広畜産大学の渡邊教授も、そのお仲間ですが)。機能主義批判、心理主義批判は、今回の新刊の第九章でも詳細に論じられておりますが、その中西先生が、わざわざ「飛んで火に入る夏の虫」のように、「今日のこのめでたき日に参加された理由がわからない」と芦田宏直氏は申しております。では、中西先生、祝スピーチをよろしくお願いします。


(紹介に対して)ありがとうございます。中西です。この度はご出版おめでとうございます。すごくこう、やり易い紹介をしていただきまして(芦田笑)、本当にありがたいなと思ってるんですが、私が芦田先生とこう本格的なやり取りを始めたのは確か2010年の初夏だったと思うんですけれども、当然いつものように、芦田先生が心理学のことをバカにしてるわけですね。

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投稿者:ashida1670 | 11:41 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 小山龍介さん(ビジネスクリエーター)・祝スピーチ_2013年8月7日出版記念パーティー(於・日本外国特派員協会) 2013年08月10日

●小山龍介さん(ビジネスクリエーター)の祝スピーチ

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http://www.ustream.tv/recorded/36969901/highlight/395055

●(小山龍介さんの会場での紹介)
小山龍介さんは、多くのビジネス創造論、思考発想論関連の著書がある売れっ子の活動家。東日本復興の事業にも精力的に関わっておられますが、ビジネスノウハウ論の大嫌いな芦田宏直氏と小山さんがなぜ仲がいいかと言うと、小山さんは、京都大学哲学科で美学を専攻された哲学徒。芦田さんのターミノロジーが耳に馴染みやすいとのこと。では、小山龍介(こやまりゅうすけ)さん、祝スピーチをよろしくお願いします。

ただいまご紹介にあずかりました小山と申します。芦田先生、このたびは本当におめでとうございます。

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投稿者:ashida1670 | 11:34 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 永川優樹さん(映像作家)・祝スピーチ_2013年8月7日出版記念パーティー(於・日本外国特派員協会) 2013年08月10日

●永川 優樹さん(映像作家)の祝スピーチ

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http://www.ustream.tv/recorded/36969901/highlight/395053

(会場での永川優樹さんの紹介)
永川優樹(えいかわゆうき)さんは、世界中の都市や自然環境を映像資産として記録されている売れっ子の映像作家。映像論としてもTwitter微分論は独創的な価値があるとTwitter上で交流が生まれ、何回かの芦田氏の講演にも積極的に参加。先ほどのウジさん共々、新刊第九章で展開されるTwitter微分論が生んだお仲間のお一人です。では、永川優樹さん、祝スピーチをよろしくお願いします。


すいません、このそうそうたるメンバーの中で紹介して頂くのは本当に恐縮なほど、無名な人間で申し訳ありません。芦田先生、出版おめでとうございます。

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投稿者:ashida1670 | 11:19 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 ウジトモコさん(アートディレクター)・祝スピーチ_2013年8月7日出版記念パーティー(於・日本外国特派員協会) 2013年08月10日

●ウジトモコさん(アートディレクター)の祝スピーチ

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http://www.ustream.tv/recorded/36969901/highlight/395051

(会場でのウジトモコさんの紹介)
ウジトモコさんは、ベストセラー『デザインセンスを身につける』(ソフトバンク新書)の著者。現役のデザイナーですが、たった20人しか集まらなかった著者の最初のツイッター微分論レクチャー(全日空ホテル2010年1月)の参加者の一人。そのレクチャーで最初会ったときは、喧嘩をしていたそうですが、その後こんなに長い付き合いになるとは、と、芦田氏の弁。その年の9月には、ウジさんの主催される「デザインとブランドアイデンティティ」セミナー&特別講演会において、『デザインとは何か ― デザインの哲学的意味論について』という講演まで芦田氏はされるほどの関係に。初回の顔合わせの喧嘩は何だったんでしょう。では、ウジトモコさん、祝スピーチをよろしくお願いします。

 芦田先生、今日はおめでとうございます。こんにちは、アートディレクターのウジトモコでございます。私はですね、2009年の秋口頃、ツイッターが楽しくて仕方がない頃に、さきほど津田さんがご挨拶されたように、全く出会う予定なくしてですね、すれ違ってしまいまして(芦田•笑)。

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投稿者:ashida1670 | 11:04 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 高橋健太郎さん(音楽評論家)・祝スピーチ_2013年8月7日出版記念パーティー(於・日本外国特派員協会) 2013年08月10日

●高橋健太郎さん(音楽評論家)の祝スピーチ

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http://www.ustream.tv/recorded/36969901/highlight/395035

(会場での高橋健太郎さんの紹介)
高橋健太郎さんは、新刊「ポップスミュージックのゆくえ」でも著名な音楽評論家。「頭の中にあるものを表現するのは難しい」と高橋氏がつぶやいたのを、芦田氏が「頭の中、なんて存在しない」と喧嘩を売ったのが、最初の出会いでした。最近は、原発事故の精力的で継続的なツイートで活躍されています。「日本の原発ではメルトダウンは起こらない、チェルノブイリのようななることはあり得ない、と理屈抜きで信じ込まされてきたんだよね。11日夜の時点で、もうどうしようもないってTL上で言っていたのが芦田先生だけだったのを思い出す」と原発問題でも二人はシンクロされています。では、高橋健太郎さん、祝スピーチをよろしくお願いします。


 芦田先生今日はおめでとうございます。実はですね、芦田先生にお目にかかるのは実は今日が初めてでして(笑)、皆さんのスピーチを聞いて頂いて、いろいろと過去の暴露話とかですね、できるのに、僕は何にもそういうネタを持っていなくてつまらないなぁと思っていたんですけれども。

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投稿者:ashida1670 | 00:30 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 野上ゆきえさん(都議会議員)・祝スピーチ_2013年8月7日出版記念パーティー(於・日本外国特派員協会) 2013年08月09日

●野上ゆきえさん(都議会議員)の祝スピーチ

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http://www.ustream.tv/recorded/36969901/highlight/395033

(会場での野上ゆきえさん紹介)
野上ゆきえ(のがみゆきえ)さんは、都議会議員。著者のツイッター微分論を天下に広めたTwitter東京都庁講演は、野上議員のお膳立てで可能になりました。「オンライン自己」論で有名な芦田宏直氏の「ストック情報武装化論」10回連載も、この都庁講演を聞いていた日経BPnetの編集長のご判断が元になっております。Twitter微分論の「生みの母」とも言える野上議員です。では、野上先生、祝スピーチをよろしくお願いします。

 皆さんこんばんは、ただいまご紹介いただきました、東京都議会議員、野上ゆきえでございます。本日は芦田宏直先生の出版記念パーティ、本当に多くの方がお集りの上、開催されましたこと、本当におめでとうございます。

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投稿者:ashida1670 | 22:53 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 宇佐美登さん(元衆議院議員)・祝スピーチ_2013年8月7日出版記念パーティー(於・日本外国特派員協会) 2013年08月09日

●宇佐美登さん(元衆議院議員)の祝スピーチ

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http://www.ustream.tv/recorded/36969901/highlight/395031

(会場での宇佐美登さんの紹介)
宇佐美登(うさみのぼる)さんは、元衆議院議員。1993年新党さきがけ公認で26歳で初当選。現在は、9月に投票が行われる福島県「いわき市」市長選の立候補の準備をされています。芦田宏直氏とは「言うに言われぬ」長いお付き合いです。では、宇佐美さん、祝スピーチをよろしくお願いします。


 皆さんこんばんは。えー本人より目立つ挨拶をする栄陽子さんの後に私がするなんて大変厳しいんですけれども、栄先生とも、おそらく芦田先生とお会いする前からのお付き合いをさせていただいております、いまご紹介いただきました、宇佐美登と申します。

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投稿者:ashida1670 | 22:39 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 小渕優子さん(財務副大臣・衆議院議員)・祝スピーチ_2013年8月7日出版記念パーティー(於・日本外国特派員協会) 2013年08月09日

●小渕優子さん(財務副大臣・衆議院議員) の祝スピーチ

02小渕2.jpg

http://www.ustream.tv/recorded/36969901/highlight/395017

(会場での小渕優子さんの紹介)
衆議院議員で、現在、財務副大臣でもあられる小渕優子さんに祝スピーチをお願いします。小渕先生は、著者の芦田宏直氏とは古くからの「言うに言われぬ」お付き合いがあるそうです。今日は、25年ぶりの芦田先生の新刊出版記念パーティーということで、お忙しい中駆けつけてくださいました。では、小渕先生、祝スピーチ、よろしくお願いします。


 ただいまご紹介をいただきました、小渕優子と申します。えー改めまして、すみません、ちょっと今日は子ども達を連れて来ました、大変うるさくしておりますけれども、改めまして、本日芦田先生の素晴らしいご本が書かれたということで、まず心からお祝い申し上げたいと思います。芦田先生おめでとうございます。

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投稿者:ashida1670 | 22:01 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 栄陽子さん(栄陽子留学研究所所長)・祝スピーチ_2013年8月7日出版記念パーティー(於・日本外国特派員協会) 2013年08月09日

●栄陽子さん(栄陽子留学研究所所長) の祝スピーチ
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http://www.ustream.tv/recorded/36969901/highlight/395023

(会場での栄陽子さんの紹介)
栄陽子(さかえようこ)先生http://www.ryugaku.com/は、日本の若者の、質の高いアメリカ留学への道を切り開いた先駆者。芦田宏直氏の専門学校校長時代に、留学提携で協力を頂いた先生です。もうかれこれ20年以上のお付き合いになります。では、栄先生、祝スピーチをよろしくお願いします。

 皆さん栄陽子です、こんばんはー。こんばんはー、こんばんはー。

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投稿者:ashida1670 | 21:15 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 八木哲郎さん(「知的生産の技術」研究会会長)・祝スピーチ_2013年8月7日出版記念パーティー(於・日本外国特派員協会) 2013年08月09日

●八木哲郎さん(「知的生産の技術」研究会会長) の祝スピーチ

07八木3.jpg

http://www.ustream.tv/recorded/36969901/highlight/395021

(会場での八木哲郎さんの紹介)
八木哲郎先生は、「知的生産の技術」研究会(http://www.tiken.org/)を長い間導いてこられた先生です。著者の芦田宏直氏とは、15年来のご関係で、八木先生と芦田氏がコラボして開催された著名人講座は30講座以上。その中には、寺島実郎、西和彦、紀田順一郎、村松増美、養老孟司、藤原正彦などそうそうたる著名人の講座が含まれています。その中で、芦田宏直氏ご自身が、講座を開設されたのが、今回の御著書の中核となる第九章「機能主義とメディアの現在」でした。この論考は、2010年12月13日虎ノ門の商工会館で開催された「知的生産の技術」研究会講演が元になっております。文字興しは八木会長ご自身がなされました。まさに、この新刊『努力する人間になってはいけない ― 学校と仕事と社会の新人論』は、八木会長なしには生まれなかったものです。では、八木会長、祝スピーチをよろしくお願いします。


 さきほど紹介をいただきました、「知的生産の技術研究会」の会長の八木と申します。

芦田さん、この度は大変素晴らしいご本をお書きになりまして、大変おめでとうございます。僕もまだ読んでいませんけれども、私が「機能主義とメディアの現在」のテープ起こしをしたときは、全くわからなかったですね、どういう本になるのか、私自身も意味がわからないけれども、まあ(文字起こしは)機械的にって言いますかね、どうしてもわからない部分がありました(笑)。

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投稿者:ashida1670 | 20:46 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 津田大介さん(メディアアクティビスト)・祝スピーチ_2013年8月7日出版記念(於・日本外国特派員協会) 2013年08月09日

●津田大介さんの祝スピーチ(メディア・アクティビスト)

tsudadaisuke.jpg

http://www.ustream.tv/recorded/36969901/highlight/395019

(会場での津田さん紹介)
 津田大介さんは、みなさんもご存じのように、日本にTwitter利用を広めた先駆的なジャーナリスト。会議の速記メモを、Twitterに流すのを「ツダる」と言いますが、これも津田さんの「ツダ(津田)」から来ているほどに、ソーシャルメディア界の貢献度No.1の方です。今回、この新刊書の帯を書かれておられますが、著者の芦田宏直氏との関係もまたTwitterでの交流からでした。最初は、その交流も口争いから始まったとのことですが、そのあたりから祝スピーチを頂きましょうか。では、津田大介さん、どうぞ。


 みなさんこんばんは。そして芦田先生、出版おめでとうございます。

 今、ご紹介で、芦田さんと僕の出会いがツイッターであって、最初は「口争い」っていうお話だったんですけど、これは正確ではなくて、罵倒でしたね(笑)、正確に言うと。

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投稿者:ashida1670 | 20:10 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 私の新刊『努力する人間になってはいけない ― 学校と仕事と社会の新人論』出版記念パーティーUst完全生中継することになりました。 2013年08月06日

◆日時 8月7日18:30開場からレクチャー最終21:30まで、完全放映します。
◆会場 日本外国特派員協会(有楽町電気ビル北館20階)
※なお、パーティーは200名定員のところ満杯になっており受付できませんが、懇親会(銀座)は22:00~05:00まで(二次会22:00~24:00 三次会24:30~05:00)までまだ受け付けております。懇親会のみの参加も受けております(本もフライングゲットで手に入ります)。奮ってご参加下さい。申込みサイトはこちら→http://kokucheese.com/event/index/101623/

18:30 開場
18:30 サイン会
19:00 パーティ開始
19:00 乾杯の挨拶 
19:20~20:10 ゲストスピーチ(10名前後)+歓談・食事タイム
20:10~20:30 講演会場作り(椅子配置)のため休憩時間
20:30~21:30 芦田による著作解題講演
21:30 終わりの挨拶

Ustサイトアドレスはこちら

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投稿者:ashida1670 | 10:56 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 私の新刊『努力する人間になってはいけない ― 学校と仕事と社会の新人論』出版記念パーティー申し込みサイトが開設されました(そのまま転記します)。 2013年07月09日

みなさま、大変長らくお待たせいたしました。

芦田先生の新刊『努力する人間になってはいけないー学校と仕事と社会の新人論』(496ページ・定価<本体価格2800円+税>・ロゼッタストーン刊)ができあがりました!

この新刊発行を記念して、8月7日、出版記念パーティを開催します。本の発行は9月2日を予定していますが、この日のパーティに来てくだされば、誰よりも早く先生の力作を手にすることができます。さらに芦田先生による解題講演も! どなたでも参加できますので、ふるってご参加ください。

カバー写真.jpg

縦置き.jpg

表一帯.jpg
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●著者のことば

この本の中核をなす第9章「機能主義とメディアの現在」の加筆・修正(同時に日経BPnetの未完の第10回の完成)が私に可能になったのは、なんと言っても東日本大震災が機縁になっている。

第九章の序論とでも言える「気仙沼はどうなっているのか」(266~273頁)で、「私は、いま〈新人〉のことを考えている」(269頁)とポツンと書いたとき、ツイッター微分論の〈新人論〉=「走り出そうとしている人」(ハイデガー)論(274~391頁)は、まだ私の念頭に全くなかったが、「機能主義とメディアの現在」を補完的に書き進むにつれて、別の時間の出来事だった震災論とツイッター論とが一気に結びついた感じだった。

 このニュアンスを書籍だけで伝えるのはなかなか難しい(もちろん第9章全体をじっくり読んで頂ければ分かってもらえるように書いたつもりだが)。

 出版社からは「お祝いの会なのだから、講演はまた別の機会に」と言われたのだが、「いやいやぜひ解題講演を」、と、わざわざ組み込んで頂いたのはそのためだ。パーティー当日はそこのところをうまくお伝えできれば、と思っている。みなさんとお会いできるのを楽しみにしております。

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投稿者:ashida1670 | 06:55 | 感想を見る・書く (1) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 【最終版】新刊書索引語体系ができあがりました ― まもなく出版されます(お待たせしました)。 2013年06月04日

『台風クラブ』
『遠い空の向こうに』
『ミッドナイト・イン・パリ』
"Das Ende der Massenproduktion"
"Liberty vs Equal Opportunity" in "Equality : Selected Readings"
"Sein und Zeit"
『傘がない』
『ふるさと』
『また逢う日まで』
『港町ブルース』
『現代ビジネス』
『ストック情報武装化論』
『子ども・若者白書』
『若者雇用関連データ』
『学力があぶない』
『哲学』1990/10(「人工知能における『頭の内と外』」)
「新しい専門学校制度の在り方(専門学校の将来像)」答申
『新しい労働社会』
『人工知能になぜ哲学が必要か』(「一般化フレーム問題の提唱」)
『意味に飢える社会』
『引用の織物』
『解釈の革新』
『階層化日本と教育危機』
「学士課程教育の構築に向けて」答申
『学問のすすめ』
『学歴社会』
『学歴の社会史』
『学歴分断社会』
『カント哲学の形成と形而上学的基礎』
『危険社会―新しい近代への道』
『君は、こんなワクワクする世界を見ずに死ねるか』
『キャリアエデュ』NO.26
『教育改革のゆくえ』
『教育の職業的意義』
『共同幻想論』
『近代とはいかなる時代か?』
『クローズアップ現代』
『グロテスクな教養』
『経済学・哲学草稿』
『形而上学の存在- 神- 論的体制』1957年講義
『言語にとって美とは何か』
『現代詩』第1巻第2号
『現代政治の思想と行動』
『現代の高等教育』
『高度成長』
『声と現象』
『個性を煽られる子どもたち ― 親密圏の変容を考える』
「今後の学校におけるキャリア教育・職業教育の在り方について」答申
『西国立志編』
『サイバネティクス ― 動物と機械における制御と通信』
『サルトル哲学序説』
『思考としての歴史と行動としての歴史』
『資本主義と自由』
『自民党と教育政策』
『純粋理性批判』
『情報様式論』
『フロイト全集第二〇巻』(「女性の性について」)
『書物の時間』
『真贋』
『人工知能になぜ哲学が必要か』
『精神現象学』
『世界』
『専修学校教育の振興方策等に関する調査研究』
「専門学校における職業実践的な教育に特化した枠組みについて」骨子案
『存在と時間』
『大学の教育力』
『大衆教育社会のゆくえ』
『大論理学』
『多元化する「能力」と日本社会 ― ハイパー・メリトクラシー化の中で』
『現代思想』18‒3号(「知性の条件とロボットのジレンマ」)
『知的生産の技術』
『転位のための十篇』
『日本のメリトクラシー』
『人間はどこまで動物か』

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投稿者:ashida1670 | 23:13 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 【第五版】今度は「後書き」(キャリア教育はどうやって断念されたのか) ― 消費偏差値と高等教育のグランドデザイン)草稿ができました ― 読んだ人は必ず買って下さい(笑) 2013年03月22日

★あとがきにかえて

教育の現場に長い間いると、世間の人々のでき不出来、人々の行動のでき不出来がすべて自分の教育の成否に関わっているように見えて、いやーなタイプの人間になりがちだ。組織内の同僚、部下、上長までをも「どんな教育を受けてきたのだろう」という目でついつい見てしまう。その人達の〈経験〉や〈才能〉よりも、受けてきた〈教育〉が気になる。

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投稿者:ashida1670 | 23:29 | 感想を見る・書く (1) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 来月4月下旬刊行予定の私の著作『努力する人になってはいけない』の「前書き」原稿 (話体表出の方法について)― 読んだ人は必ず買って下さい(笑) 2013年03月14日

★まえがきにかえて

 「先生、先生」と言われ続けて何十年にもなる。そうすると「先生」は大体がバカになる。先生がバカになるのにはわかりきった理由がある。

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投稿者:ashida1670 | 22:12 | 感想を見る・書く (1) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 世界一早い第63回NHK紅白歌合戦全曲速報  ― 今年のテーマは「歌で 会いたい」 2013年01月01日

今年(2012年)もこの季節がやって参りましたが、Twitterのようなメディアが出てきたために、私の紅白速報も、逆に1日遅れになってしまいました。旧来のブログ読者の方には、面食らう方もおられるかもしれませんが、お許し下さい。

なお、今年は、息子(http://www.ashida.info/blog/2008/03/post_279.html)も31日の16:00前には私の転居したばかりの自宅(品川・御殿山)に戻ってきて、家内含めて久しぶりの3人で年を越すことが出来ました(息子はこの新居ははじめて)。特筆すべきは、もう10年近く難病を患っている家内(http://www.ashida.info/blog/cat8/)も、19:15~23:45までの4時間半、リビングで紅白を見ることができたということです。今年(2012年)は、2003年の発病以来、再発が一回もない記念すべきはじめての年でした。その年の締めくくりにふさわしい紅白鑑賞となりました。

とりあえず記事をUPしますが、周辺の状況(反応)を加えた増補版を後で再アップします。今しばらくお待ち下さい。

※今年のTwitterの閲覧数(http://togetter.com/li/432290?f=tgtn)は、40,000view超えました。おかげで、ブログの閲覧数は減りました(笑)。

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非国民。 RT @pandachopanda: なんと…!芦田先生の紅白実況を楽しみにしていたのに、夫は"笑ってはいけない"を見る気満々(; ̄ェ ̄)。 テレビ一個しかねーよ。 どっか友達んち行ってくれば?とか言ってみようかな… #ashida1231
jai_an 2012-12-31 17:18:24

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投稿者:ashida1670 | 18:20 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 恒例のヒルトン忘年会を今年も12月22日に開催します ― 芦田の新刊出版記念、および引っ越し報告忘年会 2012年12月06日

【日時】2012年12月22日20:00~翌朝まで(受付19:15より)

【場所内容】ヒルトン東京(新宿)http://www.hiltontokyo.jp/
●第一部(19:45~22:30):二階「チェッカーズ」http://www.hiltontokyo.jp/restaurants/checkers.html
19:00 受け付け開始(受付は19:00からやっています)
19:45 開会(芦田の気分がよければ、開会の辞あり)
20:00 本格的に飲み食い開始(食べ放題、飲み放題のヒルトンバイキング開始。
20:30 芦田による3月出版予定の新刊本の内容、進捗状況の報告、世田谷南烏山→品川御殿山引っ越し報告、人生相談・勉学相談・就職相談・星占い・その他など)、その他自由交流会(閉会まで座席移動は自由)
21:00 芦田の日ごろのツイートに対するに「一言言いたい、聞きたい(参加者自由発言・その他)」
22:30 第一部閉会((芦田の気分がよければ、閉会の辞あり)

※参考資料「就職活動開始の学生諸君に贈る ― 就職活動への檄20箇条」http://www.ashida.info/blog/2010/09/_20.html

●第二部(22:30~新宿駅始発時刻):一階「マーブルラウンジ」http://www.hiltontokyo.jp/restaurants/marble_lounge.html

小山龍介(https://twitter.com/ryu2net)さん+中西大輔さん(https://twitter.com/daihiko)+芦田のトークセッション「機能主義とは何か」(三人だけが話すのではなく、参加者全員が自由に話せるような感じで進行します。お気軽にご参加ください)

参考資料(1):芦田先生と渡邊先生の議論まとめ(http://togetter.com/li/60109
参考資料(2):機能主義とメディアの現在-情報社会とデータベースと人間の死と(講演) 
※補論:土井隆義の『個性を煽られる若者たち』における個性論(http://www.ashida.info/blog/2011/04/post_409.html
参考資料(3):芦田宏直の「ストック情報武装化論」http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20100524/227559/

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投稿者:ashida1670 | 13:22 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 高大連携に於ける「本人の希望優先」という進路指導方針について 2012年11月08日

1)まず、第一前提は、「本人の希望」(厳密には「本人の意志」)を無視して、進路指導などできないということ。これに反対する者など誰もいない。

2)問題は、この「本人の希望」という言葉は、“最初に”本人が何を考えているのか(今後、この本人の希望を〈希望1〉と呼びます)、と、“最終的には”何を希望するのか(今後、この本人の希望を〈希望2〉と呼びます)という紆余曲折のプロセスを覆い隠してしまうということ。

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投稿者:ashida1670 | 07:55 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 学校教育における〈試験(学期末試験)〉の意味について 2012年09月16日

この夏休み期間中に、特には8月中にやったFD研修の中で、特に、学校教育における試験の意味について質問や議論があったところを、Q&Aふうにまとめてみました。ご参考になればどうぞ。

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投稿者:ashida1670 | 02:05 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 講談社『現代ビジネス』の田村耕太郎さんによる取材記事・総集編(第一弾~第三弾) ― 偏差値30、40台の学生を一流のITエンジニアにする教育法 2012年06月14日

現代ビジネス(講談社)の田村耕太郎さんの私へのインタビュー記事:「偏差値30、40台の学生を一流のITエンジニアにする教育法 ― ゆとり教育の被害者を稼げる人材に変えよ!」http://gendai.ismedia.jp/articles/-/32600 から三週にわたって分載された私の発言を修正補筆しながら、全文一覧できるようにしました。


「現在の高等教育での一番の問題点は、いまの大学教育も専門学校教育も、積み上げ型のカリキュラムになっていないということです」と芦田宏直氏は言う。

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投稿者:ashida1670 | 17:28 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 講談社『現代ビジネス』の田村耕太郎さんによる取材記事・第二弾、本日UPされました。 2012年05月28日

「偏差値30台、40台の学生を最強のIT戦士にする教育(その2)
― 東大、東工大を就職で圧倒する専門学校生。受験で詰め込めなかった学生に詰め込んでこぼさせず社会に出す教育」http://gendai.ismedia.jp/articles/-/32654

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『人間性』とか『コミュニケーション能力』というのを期待する企業は、リベラルアーツ病にかかっている『高偏差値大学待望型』の企業なわけです。単に素性の良い学生を欲しがっているだけのこと。こういった企業を出口に想定すると、学校側もカリキュラム開発を促進する動機を失ってしまうわけです。

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投稿者:ashida1670 | 12:19 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 Learning Planet 2010-03 / vol.3-2 キャリア教育を考える 2012年05月27日

先週の田村耕太郎さんの、私への取材記事http://gendai.ismedia.jp/articles/-/32600は、BS朝日「Learning Planet」(2010年3月)で、「キャリア教育」について私が話したこの内容と関連しています。この機会に参照してみて下さい。なお、この放送で流れるパネルの原稿は、私が書いたものを、BS朝日がパネルデザインに直したものです。

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投稿者:ashida1670 | 11:24 | 感想を見る・書く (1) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 偏差値30、40台の学生を一流のITエンジニアにする教育法(講談社『現代ビジネス』における田村耕太郎さんの記事) 2012年05月21日

「コカコーラソーシャルメディアサミット2010」(http://www.ashida.info/blog/2010/12/2010.html)以来、交流のある前参議院議員の田村耕太郎さんが、今の日本における大学教育(あるいは専門学校教育)の問題のについて、私に取材してくれた。本日、『現代ビジネス』(講談社)にUPされました。

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「問題は、いまの大学教育も専門学校教育も、積み上げ型のカリキュラムになっていないということです」(芦田氏)

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投稿者:ashida1670 | 16:43 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 「気仙沼はどうなっているのか」 ― 今頃、年賀状が書けました。 2012年05月11日

※この記事は2012年の年賀状を書き始めて、そのままになっていたものを、ふとしたきっかけで今頃書き終えたものです。季節外れの文体を我慢してください(笑)。ふとしたきっかけ、というのは、私の3月11日大震災のツイート集http://togetter.com/li/110551を昨日リツイートした方がおられて、そこに「気仙沼はどうなっているのか」という11日の私のツイートを見つけたからです。胸が締め付けられる思いがして、一気に書き上げました。

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昨年の紅白歌合戦(第62回紅白歌合戦)のテーマは「あしたを歌おう」だった。たぶんに東北震災(東日本大震災)を意識したものだった。

私がこの紅白で一番感激したのは、森進一の『港町ブルース』http://www.youtube.com/watch?v=ca5RkkKHwRw&feature=fvwrelだった(紅白中全曲平均点が50点代後半の私の採点の中で、この歌唱は100点満点だった)。この歌は私の世代の人間には、森進一の代表作とも言ってよいものだ。他の震災関連の企画参加曲と違って、この歌は震災のはるか以前から、関西に済む高校生の私にさえよく知られた曲だった。

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投稿者:ashida1670 | 01:45 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 増補版(Version 17.0) 追悼・吉本隆明 2012年03月17日

●追悼のための銘辞
ぼくの孤独はほとんど極限に耐えられる 
ぼくの肉体はほとんど苛酷に耐えられる
ぼくがたふれたらひとつの直接性がたふれる
もたれあふことをきらつた反抗がたふれる
ぼくがたふれたら同胞はぼくの屍体を
湿つた忍従の穴へ埋めるにきまつてゐる
ぼくがたふれたら収奪者は勢ひをもりかへす
だから ちひさなやさしい群よ
みんなのひとつひとつの貌よ
さやうなら

 ― 「ちひさな群れへの挨拶」(1952年)より


ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだらうといふ妄想によつて ぼくは廃人であるさうだ おうこの夕ぐれ時の街の風景は 無数の休暇でたてこんでゐる 街は喧曝と無関心によつてぼくの友である 苦悩の広場はぼくがひとりで地ならしをして ちようどぼくがはいるにふさはしいビルデイングを建てよう 大工と大工の子の神話はいらない 不毛の国の花々 ぼくの愛した女たち お訣れだ
 ― 「廃人の歌」(1952年)より


けふから ぼくらは泣かない
きのふまでのように もう世界は
うつくしくもなくなつたから そうして
針のやうなことばをあつめて 悲惨な
出来ごとを生活のなかからみつけ
つき刺す…
胸のあひだからは 涙のかはりに
バラ色の私鉄の切符が
くちやくちやになつてあらはれ
ぼくらはぼくらに または少女に
それを視せて とほくまで
ゆくんだと告げるのである
とほくまでゆくんだ ぼくらの好きな人々よ
嫉みと嫉みとをからみ合はせても
窮迫したぼくらの生活からは 名高い
恋の物語はうまれない

 ― 「涙が涸れる」(1954年)より


人間の意志はなるほど、選択する自由をもっている。選択のなかに、自由の意識がよみがえるのを感ずることができる。だが、この自由な選択にかけられた人間の意志も、人間と人間との関係が強いる絶対性のまえでは、相対的なものにすぎない。(…)人間は、狡猾に秩序をぬってあるきながら、革命思想を信じることもできるし、貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら、革命思想を嫌悪することも出来る。自由な意志は選択するからだ。しかし、人間の情況を決定するのは関係の絶対性だけである。
 ― 「マチウ書試論」(1954)より


言語が意味や音のほかに像をもつというかんがえを、言語学者はみとめないかもしれない。しかし〈言語〉というコトバを本質的な意味でつかうとき、わたしたちは言語学をふり切ってもこの考えにつくほうがよい。(…)言語における像という概念に根拠をあたえさえすれば、この別れは可能なのだ。
 ― 『言語にとって美とはなにか』(1965年)より


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 吉本隆明さんが昨日16日亡くなりました(http://www.asahi.com/obituaries/update/0316/TKY201203160011.html)。87歳。私の父親とほぼ同じ年齢の思想家でした。印象深い『マチウ書試論』は私の生まれた年(1954年)の作品です。

 私の直接のあまりにも近しい恩師と言えば、詩人でもありベケットの研究者でもある永坂田津子先生(http://www.ashida.info/blog/2001/01/re1.html、、デリダを『声と現象』で日本に最初に紹介した高橋允昭先生(http://www.ashida.info/blog/2004/10/hamaenco_4_97.html)、ハイデガー・ニーチェ研究者の川原栄峰先生(http://www.ashida.info/blog/2007/01/post_185.html)ですが、それに加えて(自分勝手な)恩師を挙げるとすれば、吉本隆明さんでした。

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投稿者:ashida1670 | 12:23 | 感想を見る・書く (3) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 ホイットニーヒューストン追悼(三つのビデオ画像付き) ― 和田アキ子は許せない。 2012年02月19日

18日、ホイットニー・ヒューストン(48)の葬儀が、出身地のニュージャージー州ニューアークで行われました。「ボディーガード」で共演した俳優のケビン・コスナーも出席、涙ぐんで弔辞を披露していました。私には「ボディーガード」のホイットニーよりは、初期の2枚のアルバムの方がはるかに思い入れがあるのですが、「ボディーガード」のアルバムも立派なものでした。

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投稿者:ashida1670 | 11:50 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 ANAグランドスタッフの接遇とキャンセル待ち予約システムの諸問題 ― 空港でのキャンセル待ち予約はほとんどあてにならない 2012年01月20日

1)昨日の19日木曜日、羽田12:00発伊丹行き便のキャンセル待ち対応について、羽田空港のGS(グランドスタッフ)たちともめてしまった。※保安検査場を通る前の搭乗受付カウンターGS二人。

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投稿者:ashida1670 | 02:12 | 感想を見る・書く (12) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 増補改訂版:世界一早い第62回NHK紅白歌合戦全曲速報 ― 「気仙沼」の『港町ブルース』に100点。 2012年01月01日

【業務連絡】芦田先生( @jai_an )をフォローしてない者は紅白歌合戦開始までにフォローするように。
PT_Horiuchi 2011/12/31 15:55:17

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投稿者:ashida1670 | 18:03 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 世界一早い第62回NHK紅白歌合戦全曲速報 2012年01月01日

始まった。
jai_an 2011/12/31 19:15:12

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投稿者:ashida1670 | 03:17 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 追再試と落伍者をどう考えるか ― 追試の慢性化は、いかに教員と授業を腐敗させるのか 2011年12月08日

●追再試と落伍者をどう考えるか

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投稿者:ashida1670 | 18:12 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 「ある」と「べき」について ― 1988年法政大学「哲学」講義 2011年11月30日

この講義は1988年度法政大学通信教育スクーリング講座(於:市ヶ谷校舎)の、1年間通年で行われたものの録音テープを編集したものです(第二回目と第三回目の講義)。当時、熱心な学生がいて、私の講義を文字興ししてくれました。私が、教壇に立った最初の講義です。400名の履修登録学生のいる大きな階段教室での講義でした。Twitterで、「ある」と「べき」との関係について悩んでいる人がいたので、この講義を思い出した次第です。ここに再録します。懐かしい。私が34歳の時のものです。

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投稿者:ashida1670 | 13:29 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 今年もコカ・コーラソーシャルメディアサミット2011で講演します ― 津田大介さん、勝間和代さん、近藤正晃さんとパネルディスカッションもやります。 2011年11月17日

今年も、12月26日、ベルサール渋谷ファーストで開催されるコカ・コーラソーシャルメディアサミット2011で講演します(http://c.cocacola.co.jp/smscp/index.html)。「Twitter頂上対談:Twitterのもたらす社会的変化と経済効果とは?」として、津田大介さん、勝間和代さん、近藤正晃さん(Twitter Japan社代表)とパネルディスカッションもやります。

津田さん(基調講演)と私の講演(特別講演)との後のパネルディスカッションになります。

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投稿者:ashida1670 | 20:29 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数  

 10月以降の年内の講演会の予定 ― 長崎、福岡、京都(同志社大学)、神戸、東京(立教大学)で講演します 2011年09月27日

現在のところ、10月1日(長崎)、10月2日(福岡)、16日(京都)、11月6日(神戸)、12月17日(東京)の予定です。詳細は以下。※12月に東京で一回行う予定ですが、追って報告します。

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投稿者:ashida1670 | 14:41 | 感想を見る・書く (0) | トラックバック (0) | この記事の訪問者数