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 2006年度卒業式式辞 ― 〈顧客満足〉とは何か? (二枚の写真付き) 2007年03月16日

皆さん、卒業おめでとうございます。

今日はたくさんの来賓の方、保護者の方が皆さんの門出を祝して列席されています。

来賓の方々、保護者の方々、3月の年度末でお忙しい中、列席頂いてありがとうございます。学生、教職員を代表して感謝の意を表したいと思います。

私が皆さんの前に立つのは、2回目。1回目は入学式式辞。2回目が今日。卒業式式辞は最期の講義です。最期だと思って覚悟して聞いてください。

4月から社会人になるみなさんが必ず言われるようになる言葉があります。

「お客様を大切にしよう」という言葉です。

一見当たり前のように思える言葉ですが、本来の意味で理解するにはなかなか難しい言葉です。

みなさんは、卒業する今日まで〈学生〉でした。だからみなさんの価値の基準は、「正しいか、間違っているか」だったと思います。

学生にとっては、基本的には試験判定が優劣を決めますから、答えが正しい、間違っているということがすべてだったわけです。

その上、皆さんのほとんどは、エンジニアの教育を受けてきました。「エンジニア」とは語源的にも物に関わり、物を作る人のことを言います。

みなさんは、いわゆる工学的な勉強をしてきたわけです。物を作ったり、物をなおしたりするのに、まちがったこと(正しくないこと)をしたら、思うようにことは運びません。

〈エンジニア〉はその意味で正しいことをする人を意味しています。間違ったことをしたら、車も走らない、家も建たない。ホームページも動きません。

その意味でもみなさんは正しい、正しくない、何が正しいのか、何が間違っているのかということを大切な価値観として、ここまで過ごしてきたわけです。

ところが、「お客様を大切にしよう」というのは、正しい、正しくないという問題ではありません。

正しいことをやっていても、お客様が認めないことがあります。そんなことはいくらでもあります。

車の整備をした。完璧になおした。でも、「調子が悪いんだよね」とお客様に言われる。技術的にはもうこれ以上直しようがない。先輩に見てもらっても、所長に見てもらっても、もはや直すところはない。でもお客様は「調子が悪い」と言いつづける。そんなことはいくらでもあります。

そんな時に「やるべきことはやりました」なんて言ったら身も蓋もありません。筋の通らない文句を言いつづけるお客様に「私は正しい」なんて言ったらもっと大事(おおごと)になります。

お客様との「関係」というのは、白黒をつける場所ではないのです。

学校の試験なら、答えが合っていれば=正しければ、それで◎と点数がついて終わりですが、仕事の現場では、正しいことが確認されてからが仕事になります。

正しいということをお客様にわかってもらわなくてはならない。

お客様が“わかる”ということを仕事の現場では、“正解”とは言わず、〈納得〉、〈満足〉というふうに言います。お客様に納得して頂く、満足して頂くということです。

「顧客満足(Customer Satisfaction)」という言葉をみなさんはどこかで聞いたことがあると思いますが、それは、試験で〈解答〉を得るよりははるかに難しい課題です。

この言葉が使われはじめたのは、30年前。日本が高度成長を果たして消費社会が成熟しはじめた頃です。「お客様を大切にしよう」「顧客満足」というのは今では当たり前の言葉のように聞こえますが、実はつい最近の歴史的な言葉なのです。


修正・卒業式と花.JPG

それまでは、物を買うという行為は、作り手あっての世界でした。

作る人の方が、買う人よりも優位にあったのです。

その時代には「顧客満足」という言葉は存在していませんでした。

〈作る人〉がいるからこそ、〈買う人〉がいる。これこそが第1の原則だったのです。

これを経済学で言うと、欠けているもの(=不足)を補うのが〈買う〉という行為だということになります。経済学的な「欲望の充足」というものです。

みなさんも高校か中学の英語の時間で「want」:欲するという英語のもともとの意味は「欠乏する」ことを意味していると聞いたことがあるでしょう。その意味で「欲望の充足」というのは欠けているものを補うという意味です。古典経済学的にはそうです。

従来の経済学は、その意味で〈作る〉人中心の経済学でした。

ところが、1970年代になってくると先進国の産業形態が変わり、工業生産(第二次産業)よりもサービス産業(第三次産業)が扱う金額の方が増えてきます。第三次産業の従事者は先進諸国では70%を超えます。作る人なんてほとんどいない。売る人ばかりの国になっている。

またGDP(国民総生産)における個人消費も60%近くを占めるようになります。

一回に100億、1000億単位のお金を使う政府の公共投資や大企業の設備投資よりもあなたたちが、コンビニで使うお金、携帯電話のパケット料金、デパート、スーパーでの買い物の方がはるかに規模が大きい。

つまり生産が消費の根拠なのではなくて、消費が生産の主体になっている。

たとえば、携帯電話で音楽を聴きながら、iPodも持っている。携帯電話で音楽が聴けるなんて便利! と飛びつきながら、すぐに電池が切れちゃう、とか言って(やっぱり携帯はメールと電話で使うのが一番とか言って)、結局iPodで音楽を聴いている。

まだまだ使える携帯電話をわざわざ捨てて買った理由がとっくに崩壊しているのに、でも人前では携帯電話に500曲も入るんだよ、と威張ってむしろメーカーの人間のように宣伝している。

周りから見ていると何と無駄なことをしているのか、ということになるのですが、でも本人は「満足」している。使いもしない機能(使えもしない機能)を誇りながら、その携帯電話を持っていることに「満足」している。

こんな人たちに向かって、「あなたは間違っています」なんて言うのはほとんど無意味です。

音楽が携帯で聴ける、お財布代わりにもなる、テレビも見れる、地図にもなる、電子手帳の代わりにもなる、なんて新製品が出てくると、そんな機能要らないのに、自分の携帯電話が急に古くさく見えてくる。

もっと言えば、部屋の空気が汚いから空気清浄機が必要なのではなくて、空気清浄機が存在するから部屋の空気が汚れているように思えてくる。

ビデオデッキもVHSテープからHDD(ハードディスク)レコーダーに変わりました。何百時間と録画できる。見たい番組が自由に録画ができるようになって“便利になった”。けれども録画してあるだけで見ることはぎゃくに減ってしまった。安心して見ないようになった。テープのときには必ず見ていた録画番組がHDDになって逆に見ないようになってしまった。何のために録画しているのかわからない。何が“便利になった”のかわからない。

今月の初めに死んだボードリアールというフランスの社会学者(あまり好きな思想家ではありませんが)は、「差異」こそが買うことの動機だ、と言っていました(『物の体系』1968年)。欠乏の経済から差異の経済へと移った、ということです。彼は、現代人は〈物〉を消費しているのではなくて、〈記号〉を消費していると考えたわけです。同時期にアメリカの経済学者ガルブレイスも同じようなことを言い始めていました(彼も最近死にましたが)。

ポルシェもバブル後期の90年代初頭からデザインを変えてきた。そうすると「永遠のデザイン」と言われてきたポルシェが急に古くさく見えてきた。〈差異〉が生じたからです。「永遠のデザイン」とは実態的な価値なのではなくて、変わらないことの結果に過ぎなかったわけです。

クルマのモデルチェンジというのをマーケティングの言葉では「人工的陳腐化」と言います。そうやって、購買意欲をかき立てるわけです。

「顧客満足」という心理主義的な言葉が、企業活動の中心に据えられたり、マーケティングという分野が市民権を得始めるのは、〈欠乏〉や〈必要〉を中心に据えた生産(=欠乏)の経済学が衰退していくのと軌を一にしています(1970年代後半)。

〈買う〉というのは、先進消費大国ではもはやすべて無駄使いを意味しているわけです。だから、〈買う〉という行為には根拠(=正しさ)がないことになる。

たとえば、みなさん自動車分野の学生が車を売ったりする場合。自分の嫌いな車を売らなくてはならないときが必ずある。エンジニアとしての自分が専門的・客観的に見ても性能の悪い車を売らなくてはならない。そんな時が必ずあります。

でもお客様がショールームに来店されて、「いい車だね、この車、素敵だね」なんて褒めてくださる。自分だったら絶対に買わない車を、喜んで大金を出して買ってくださるお客様が、今、目の前にいる。さてあなたはどうしますか。

あるいは、建築やインテリアの学生なら、こんなこともあります。コストダウンで、本当は付けたくもなかった安物のドアノブ(ドアの取っ手)を付けた。でもお客様がモデルルームにやって来られて、「このドアノブ素敵ね」と褒めてくれた。そんなことないよな、と(専門家としての)自分は思っていても、お客様は褒めてくれた。さて、あなたはそのお客様にどんな対応をしますか。

普通、こういった顧客対応の場面では「お客様の褒めるものを褒めなさい」なんて指導されたりもしますが、「実はこのノブ安物なんですよ」と言うとします(普通は、このトークは邪道です)。「あっ、そうなの。あなた正直な人ね。あなたの言うことなら信じられそうだわ」と逆に信頼を勝ち取るときもあります。車の場合も同じです。

こういったことは論理的に解決できない。勉強しても答えが出ない。「正しい」答えがない。

「色んなお客様がいるんだよ」と店長や所長に言われても、こちらも人間、そう簡単に「色々な人がいる」と認めることができない。「色んなお客様がいるんだよ」なんてことを本気で言えるのは死ぬ間際の悟りの境地の人間でしかない。

特に〈勉強〉というのは、「色々」ではなくて、人が従うべき普遍的真理を追究することですから、「色々」なんて言われたら、自意識が一挙に吹っ飛んでしまいます。自己意識の強い(=勉強したての)若い皆さんにとっては、「色々な人がいる」というのは絶えられない屈辱でしかありません。学生時代、まじめに勉強した人ほどそういった屈辱にまみれることになります。

そういった場面にあなたたちはこの4月から突入するわけです。


卒業式日の丸と花.JPG

そこで私は、皆さんにお願いがあります。最後のお願いです。

4月の下旬からでしょうか。皆さんははじめてサラリー(正社員としての給料)を得ることになります。

みなさんのほとんどは自宅から通う人でしょう。そこで自宅から通う人にお願いします。すでに1人暮らししている人は少し我慢して聞いてください。

給料をもらったら、最低でも5万円は自宅のお父さんやお母さんに入れなさい。

社会人になって15万円、20万円と毎月入ってくるお金は、食事や光熱費、アパート代がそこから支出されていないとすれば、結構な金額です。クルマのローンにそれを充てれば、普通の社会人には買えないほどの高級車が買える金額です。ついつい錯覚してしまいます。給料の全額をクルマのローンにあてても〈生活〉は何とかできます。自宅があるからです。

親から見れば、子供はどんなに大きくなっても子供ですから、親切なお母さんは息子や娘が社会人になって働いていても掃除や洗濯をして、さらには夕食を作って待っているでしょう。

でもそんな生活は幻想です。

〈自立する〉というのは、自分が使いたくないものにもお金を使うということを意味しています。われわれは〈光熱費〉にお金を使いたいなんて思いません。〈アパート代〉もできればなしで済ましたいと思っています。

しかし社会人になるということは、使いたくない物にも自分のお金をかけるということと同じです。そういうものを自分で担えるようになることを「大人になる」と言います。

これまであなた達が使いたくないと思っていたほとんどのコストは、すべてあなたたちのお父さんやお母さんが担っていました。それを〈親〉と言います。〈子供〉というのは欲しいものにしかお金を使わない人のことを言います。

〈社会人〉ということは、自らが親になる出発点です。

〈光熱費〉を自分で担わない社会人なんてあり得ません。

最近「フリータ」、「ニート」という言葉をよく耳にしますが、フリータ、ニートと呼ばれる人たちの半分以上は、自宅通いです(特にニートと呼ばれる人たち)。

この人達がまともに働かないのは、払いたくない金、つまり光熱費やアパート代を払っていないからです。だからアルバイトをしながら10万円しかかせがないとしても、結構やっていけるという幻想を持つのです。

自宅がないなら(=親に世話になっていないのなら)本当は2万円、1万円しか手元に残らないはずなのに、10万円、15万円のアルバイトで満足している。それがフリータ、ニートと言われる人たちです。

この人たちは金銭感覚が麻痺しています。実際の社会人は家庭を持ち、住宅ローンを支払い、光熱費を担い、その上、子供を養育し、と自分の欲しい物、買いたい物以外の出費で大半の稼ぎを無くしています。

そういう人たちに、それでもお金を出させて、「顧客にする」。それがあなたたちの4月からの課題になります。そういったなけなしの家族持ちに、車を買わせたり、家を建てさせたりする仕事があなたたちの仕事になります。

そのときに自らが、自由になる10万円の贅沢をしているようでは「顧客の要求」に答えることなどできません。「なんでけちなんだよ」、と顧客の悪口を言うばかりで終わってしまいます。

社会人というのは、基本的にけちな人たちなのです。それは自分の買いたいものだけを買っている人たちではないからです。それが好きなものだけを適当なアルバイトをしながら買い続けてきたあなたたちとの大きな違いです。

「オレ、クルマ買ったんだよ」と喜びながら言う人はいても「オレ、光熱費、払ったんだよ」とうれしそうに言う人はいない。

スーパーマーケットで買い物をすることを〈ショッピング〉に行く、とは言わない。スーパーの買い物は生活必需品の買い物だからです。それは〈ショッピング〉ではない。

買わなくてもいいものを買うことが一番楽しい買い物であって、選択の余地のない買い物(=食物や光熱費など)を楽しいと思う人はいません。社会人になるというのは、選択の余地のない買い物に給料の大半を費やす存在になるということです。

そのためにも、4月からは家に5万円以上を入れなさい。ワンルームを借りても8万円かかる時代ですから、光熱費を入れれば10万円は入れなければならないところです。そんなに入れるんだったら、外へ出るよ。というのなら外へ出なさい。それでいいのです。働く意味も生活の意味もそこでよくよく勉強できるはずです。

自分が支払いたくないものにもお金を使う。生活費の全体を自分でまかなう。これがまず若い皆さんが、子供っぽい自己意識を自分でへし折る第1の訓練になります。人の声に耳を傾ける訓練の第1歩です。

これからあなたたちが人材力を競い合わなくてはならない大学生に専門学校生がもし負けるとしたら、大学生の方がはるかに自宅から通う人が少ないということです。勉強の量は、あなたたちの方がはるかにしのいでいる。それは校長である私が保証します。でもあなたたちは、未だに部屋の掃除や洗濯をお母さんにしてもらっている。大学生は地方から出てきている分、あなたたちより1歩先に大人になっているのです。

みなさんのほとんどは東京出身、東京近辺に住んでいます。あなた達は自宅から学校へ通える。自宅から企業に通える。これは幸運なのではなくて、不幸です。東京の人間の自宅通いの社会人ほど、人材として大成しない人間はいません。

4月からはお母さんを雇うつもりで、光熱費・住居費含めてきちんと自分で支払いなさい。それがイヤなら、自宅を出ればいい。あなたたち自身が自分の財布のひもを締めずして新しい商品や新しいサービス、ましてや新しい顧客を作り出すことなどできません。顧客の声に耳を傾けること。それはスーパーの買い物とショッピングとの違い、微細な差異に、大きなセンサーを張ることから始まります。

それが、私が教員を代表して最期にみなさんに伝える言葉です。

これをもって校長の式辞に代えます。

卒業、おめでとうございます。

(2007年3月16日 東京・中野ゼロホール)


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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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